はらわたが収縮するほどの愛情・・・内臓感覚的な愛情ってどんな感じだと思いますか?
私は病院研修で患者様とお話している時、思わずお体に手をおいて、擦ったりする事があります。
患者様の方から、突然手を強く握ってきたりすることがあります。
もちろん毎回ではありません。
感染症などの問題もありますし、
治療に問題が生じる可能性もありますので、
原則的に必要性が無い限り患者様に触れる事はしません。
しかし
はらわたが収縮するほどの・・・
こういう衝動に駆られる様な行いは
なかなか説明の付きにくい現象なんですね。
以前、認知症の患者様の元を訪問した二回目の時に、一回目にお会いした時とちがって、明らかに元の状態(認知症状が出ていない)に戻る事がありました。
一回目の時も元に戻る事があって、
昔されていたお仕事の話なんかをして下さったんですけど、二回目の訪問では次元が違いました。
抑制帯でベッドに固定されている現実をちゃんと理解してらっしゃるんです。
私はその時、この衝動に駆られる様な思いによって、手をその患者様の肩にずっと置いていました。
時々擦りながら、アイコンタクトを取りながらお話ししてたんです。
ご自分の現実を分かってらっしゃり、ちゃんと戻っている時に(つまり、今)息子さんに会いたいとおっしゃってたんですね。
息子さんは毎日夕方に病室にいらしているんですが、認知症状が出ている時の患者様はそれをよく覚えていないんです。
でも時々元に戻る。
ご自身としては正気の時に
息子に会いたいって思っているんです。
主訴は剥離骨折。
認知症状は主訴ではありません。
しかし徘徊を防ぐ為に抑制帯をされているわけです。
そしてその患者様はこう言ったんです。
「体はいいのよ。 精神的に・・・辛い」

(病院のお庭にある聖ヨゼフ像)
・・・・・自分が知らないうち(認識できない状態のとき)に息子が来ていたりする事もショックなんだと思います。
このまま何も分からなくなって死んでしまうのをとても怖れてらっしゃった。
ともすれば病室を自宅を勘違いし、私は近所の奥さんという設定になってしまい、同じ事を何度も繰り返す認知症状がでるわけですが、この話はその症状が治まっている時の事です。
そのきっかけというかタイミング的に一致していたのが、この患者様の肩に手を置いて時々擦ったりしていた時でした。
不思議でした。手を置いた事によるヒーリング作用だと言ったら傲慢になってしまうかもしれませんが、私はこの患者様の肩に手を置いた時、少しでもこの患者様が癒されるように、祈っていたんです。
したら、この患者様はうとうとされて、それまで忙しなくしていたのがすっと落ち着いて静かになったんですね。
そしてご自分の置かれている状況についての考えを述べられたんです。
もし、私がこの時「癒そう」って思っていたら、起きなかった事だと思います。
これは、私がやった事ではなく、
もっと大きな力が働いていたんだと後になって思いました。
で、「はらわた的な愛の霊性」に話を戻すと。
手を置いた時、それはまるで私の内臓が揺れ動く様な感覚が走ったのでした。
別の言い方をすれば、内臓がぎゅっと締め付けられる感覚とか、体の奥底から迫ってくる様な何か・・・。
そういう、はらわたの揺れ動きです。

(夏に通っていたカトリック神学院)
今年3月に発売された、
2010年上智大学神学部下記講習講演集の阿部仲麻呂先生こ記事『はらわた的な愛の霊性』に似た様な表現があったんです。

(仲麻呂先生がサインと共に私に描いてくれた絵)
新約聖書において、イエスは出会う相手に対して神の愛を分かち合って旅を続け、そのなかで「はらわたがちぎれる想いに駆られるイエス」という表現が多数出てくるんです。
「内臓感覚としてのいつくしみの念」。
日本には「腑に落ちる」とか「断腸の思い」とか、内臓にまつわる表現が大きな決意を伴う言葉として多く存在します。
イスラエルの人々も「内臓で考える」人々で、
内臓がゆさぶられるようなという感覚は「命そのものの震え」を表し、「内臓全体において心が在る」といえるでしょう。
こういう感覚に促される衝動は、けっして打算的ではありませんし、打算的に行えない、同情とかそういうのでもない。
無心になっている状態。無私無心の中に愛が生きるというか。
こういう、思わず相手に駆け寄って助けてしまうような時に、聖霊の働きが脈動します。
これは人間が人間として尊いわざと言えるでしょう。
