東洞院通りを行く(吉益東洞宅蹟)(竹間小学校・竹間幼稚園の碑) | レレレの行ってみたらこんなとこ!

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散策で主に史跡、神社仏閣を巡ってます
各地のガイドマップに載っている史跡、山川出版社から出ている歴史散歩シリーズの画像補完計を秘かに計画しています(笑)
ドライブの一助になれば幸いです(^^)
愛書家(読書家とは違います(笑))なもんでたまに本のことも書いてます

前回からの続きです
令和元年12月11日のことです)

散策は続きます
この日は御池通りから丸太町通りの間を行ったり来たり(笑)
烏丸通りの次は、一筋隣の車屋町通りです

解説
1590年頃から大規模に進められた、豊臣秀吉の京都大改造により開かれた通り。通りの南の方には輸送業者や車鍛冶屋が多く住んでいたことから車屋町通りと呼ばれるようになりました。
(原文のまま)
北は丸太町通から南は姉小路通に至る
全長約0.8km
天正18(1590)年に開通
車屋町通りは、
当初出水通りから始まっていたそうです
それが宝永5(1708)年の大火のあと、京都御所が拡大されるにあたり町人町が移転されました😓
なので、出水通り~丸太町通りは無くなったということです
町人たちが移転した先は、新車屋町と名付けられたそうで、京都にはそういう場所が幾つかあるようです
(続・京都の大路小路参照)
ここでは石碑が無いようだったので、隣の通りへ行きます

次は東洞院(ひがしのとういん)通り
看板撮るの忘れてたみたいですがww笑い泣き
平安京の東洞院大路にあたる
北は丸太町通りからJR東海道本線の北に至る
全長約3.5km
こちらも上記と同じように宝永5年に、丸太町以北が無くなってしまいました
ただ南側は竹田街道へ連なる幹線道路であったため、享保年間(1716~1736)には交通渋滞を引き起こしたそうですびっくり
その対策として町奉行所は、この通りを北行き一方通行としたそうです
日本でもっとも早い、市内の一方通行規制はこの通りから始まったというから驚きです!
(京都の大路小路参照)

その通りに竹間公園というのがあります
住所・中京区東洞院通竹屋町下る

そこには石碑がありました

名医 吉益東洞(よしますとうどう)宅蹟
吉益東洞
1702~1773年
安芸出身
元文3(1738)年、京都に移る
山脇東洋に見いだされる
その学説は、万病一毒説と親試実験にあって、実験医学の道を切り開く
東洞の号は、東洞院通に面して住んでいたことに因んで付けたそうです
(いしぶみデータベース参照)

その横にあるのは竹間小学校 竹間幼稚園の碑
竹間小学校は、明治2(1869)年全国に先駆けて上京第二十一番組小学校として創設され、幾多の変遷を経ながら
昭和22(1947)年には京都市立竹間小学校 
平成5(1993)年には京都市立富有小学校と統合によって京都市立竹間富有小学校と改称し
開校以来八千有余の心豊かで有為な卒業生を輩出した
平成7(1995)年3月、京都の未来を担う子どもたちの教育充実を願う地域の人々の熱意と支援のもと、統合校である京都市立御所南小学校にその使命を引き継ぎ輝く伝統と歴史の幕を閉じた

竹間幼稚園は、明治18(1885)年竹間小学校に幼児保育科として創設され、京都における幼児教育の先駆けをなした
明治42(1909)年に廃止となったが、幼児教育を再開させるため
昭和30(1955)年に開園し、以来二千余名の園児が巣立った
平成8(1996)年3月、地域における幼児教育の充実、公立幼稚園の活性化を願う地域の人々の熱意と支援のもと統合園である京都市立中京もえぎ幼稚園にその使命を引き継ぎ輝く伝統と歴史の幕を閉じた
(原文のまま、一部年号捕捉)

こちらも小学校跡だったようです
東福寺近くでも統合されたのを読みましたが、田舎のみならず人口の多い都会でも統廃合が進んでる(少子化)ことを感じさせられる石碑でした😅

中京区地味散策は続きます真顔
では、またぁ~(* ̄∇ ̄)ノ