だいぶ空いてしまいました。
Art Labo 北舟の展示で出品作家の友人の台湾の写真作家も滞在していて、写真談義になりました。
カタコトの英語で写真や絵画について語り合うのは難しくも楽しい時間です。
それで久しぶりに、棚から出してきた写真集を眺めていました。
東京にいた頃、写真集を見るのが好きでした。
夜なが、(酒は飲まないので)コーヒーを片手にページをめくるのが楽しみでした。
そういう写真集は大体が風景写真であったり、旅をする写真家の写真集であったり。
北海道に来てからそういう習慣はすっかりなくなってしまいました。
なぜだろうと思うと、やはり写真集で恋焦がれていたような場所に今住んでいるからでしょう。
そして現実逃避したいようなそういう日々を送ってもいない。
東京にいる時は、そこから少しでも離れたい、写真集の中の世界のようなところに行きたいという旅や移住の願望が、写真集に向かわせていたのだと今ならわかります。
一言で言えば現実逃避です。
写真集の鑑賞としてそういう楽しみは正しいのかどうかよくわかりません。
どう楽しむかはまあ、鑑賞者の自由でしょう。
不思議な事に、いわゆるカレンダー写真的な風景写真集、「上高地」とか「釧路湿原」とかいうような写真集はあまり惹かれないのです。
作家的な写真家の風景写真の方が惹かれるのです。一つは観光名所的な風光明媚を望んでいるのではない事、もう少し繊細な感覚で風景と向かい合いたいからでしょう。
一方で写真家の主張が何か強すぎるとその逃避気分を遮る部分もあります。
その辺のさじ加減は一言で言えない微妙さがあります。
この風景写真の観光的な写真とそうでない写真との微妙な差異については、
今考えている救済や彼岸としての風景などと関連してるので、もう少し深めてみたいと思ってます。
例えば「現実逃避」という事。
今ファンタジーについて考えを巡らせています。
ファンタジーというのは、自分に都合の良い現実逃避の世界です。
現実と向き合う、真実と向き合う事を追求する芸術的表現からは軽蔑されている傾向があります。
しかし私が楽しんでいるのはその「現実逃避」です。
しかもそれはファンタジー写真ではなく、作家的な芸術表現の中に求めている。
そして、それは観光写真ではうまく逃避できない。
この辺は、なんなのか、モヤモヤとしたものがわだかまっています。
私が最近撮っている写真もファンタジー的です。
現実からできるだけ遠のく、現実にない風景を表出している。
現実逃避のための写真なのです。
それは軽蔑されるものなのでしょうか。

