こんばんは。
歴史アロマ香水®を作っています桃龍 風林佳保利です。
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本能寺の変から豊臣秀吉と徳川家康の行動を書いていますが、今回は徳川家康の事を書きます。
堺から伊賀へ
本能寺での茶会を終えた徳川家康は、堺見物へ向かうことを織田信長に告げた。
「また会おう。」
それが、二人の最後の別れとなった。
6月1日から6月2日になろうとした深夜、京の本能寺で信長は家臣・明智光秀の軍勢に襲撃される。後世にいう「本能寺の変」である。
一方その頃、堺では家康が滞在していた。
そこへ豪商・茶屋四郎次郎が息を切らせながら駆け込んできた。
「信長様が本能寺で明智光秀に襲われました!」
突然の報せに家康は言葉を失う。
信長が討たれたということは、自分もまた危険な立場に置かれたということだった。
「本能寺で信長様が襲われたか。京都からここまでは近い。三河へ帰るには京都方面を通らねばならぬ。」
家康は思案した。
堺にいる供回りはわずかな人数しかいない。
今すぐ兵を挙げても勝ち目は薄い。下手をすれば光秀軍に包囲され、討ち取られる危険さえある。
まずは三河へ帰還し、そこで体勢を立て直す。
家康はそう決断した。
しかし、どうやって帰るのか。
海路で和歌山方面へ大きく迂回する案もあったが、時間がかかりすぎる。
かといって京都へ向かえば、光秀軍と遭遇する可能性が高い。
家康は地図を見つめながら考えた。
そして、ある道筋を思い浮かべる。
「そうだ。伊賀を越えよう。」
伊賀は険しい山々に囲まれた天然の要害である。
忍びの里として知られ、外部の大軍が容易に侵入できる土地ではない。
「伊賀ならば光秀も容易には追って来られまい。」
こうして家康は、後に天下人への道を開くことになる決死の逃避行――『神君伊賀越え』を決断したのであった。
だが、この道中は決して安全なものではなかった。
落武者狩りが横行し、明智方の追手が現れるかもしれない。
家康一行は、いつ命を落としてもおかしくない極限状態の中、三河を目指して山深い伊賀路へと足を踏み入れるのであった。
伊賀越え
家康が伊賀越えを決断したとき、最大の問題は道案内と護衛だった。
京や大坂の街道は危険に満ちている。
本能寺の変の混乱で各地は騒然となり、武士や落武者を狙う者たちが徘徊していた。
そこで家康を救ったのが、伊賀者を率いる服部半蔵正成である。
半蔵は伊賀との強い繋がりを持っていた。
父・服部保長は伊賀の出身とされ、半蔵自身も伊賀衆との信頼関係を築いていたのである。
家康から救援の命を受けた半蔵は、ただちに伊賀衆や甲賀衆へ協力を要請した。
「今こそ家康様をお守りする時である。」
集まった忍びや地侍たちは、険しい山道を熟知していた。
彼らは家康一行を安全なルートへ導き、先回りして危険を探り、時には交渉役となって村々の協力を取り付けた。
家康一行は決して大軍ではない。
主君を含めても百人余りとも言われる少人数だった。
そのため、敵に発見されればひとたまりもない。
半蔵たちは昼夜を問わず警戒を続けた。
村々では落武者狩りを警戒し、危険な場所では忍びたちが先行して安全を確認した。
ある場所では地元の土豪たちが通行を拒もうとしたとも伝わる。
しかし半蔵や伊賀衆は説得や調整を行い、一行の通過を実現させた。
まさに影の功労者であった。
数日間に及ぶ苦難の末、家康一行は無事に伊勢へ抜け、船で三河へ帰還することに成功する。
もしこの時、家康が討たれていたならば、その後の歴史は大きく変わっていただろう。
関ヶ原の戦いも、江戸幕府も存在しなかったかもしれない。
家康の命をつないだ「神君伊賀越え」。
その成功を支えた最大の功労者の一人こそ、服部半蔵正成であった。
剣豪や忍者として語られることの多い服部半蔵だが、その真価は主君を守り抜く忠義と、危機の中で人々をまとめ上げる統率力にあったのである。
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