“正しければ報われる”は、もう通用しない | 問いの途中

問いの途中

“こうあるべき”をほどきながら、
自分の声に耳をすませて生きています。
正解じゃなく、問いの途中を楽しむ人。

 

「正直であること」
「相手を思いやること」
「約束は守ること」


そうやって“正しく”あるために、ずっと頑張ってきた。

子どもの頃から、「ちゃんとしてれば大丈夫」と言われて育った。


我慢して、真面目に、誠実に。
そうすれば必ず誰かが見ていて、いつか報われる
そんなふうに信じていたと思う。

 

でも、大人になるにつれて、
「それだけじゃ報われないこと」や
「正しさが裏目に出る場面」が増えていった。

 

たとえば、自分だけが我慢して場を収めたとき。
本音を言わずに相手を優先したとき。
ちゃんと向き合ったからこそ、責められてしまったとき。

 

そんなとき、私は「正しくあろうとした自分」に対して
理不尽な痛みを感じた。


それでも、“ちゃんとした自分”をやめるのは怖かった。
だって、それしか知らなかったから。

でも、ある時ふと思った。


「この正しさって、誰のために守ってるんだろう?」って。

 

それは、親に怒られないためだったり、
嫌われないようにするためだったり、
どこかで“見捨てられないため”だったかもしれない。

 

そう気づいたとき、
「正しくあること=愛される条件」ではない、と思えた。

 

もちろん今も、誠実であることを大切にしてる。
でも、それは“誰かのための正しさ”じゃなく、
“自分が誇れる自分でいたい”から。

 

報われるかどうかはもう、基準じゃない。
誰かに見てもらうためじゃなく、
自分が「これでいい」と思える選択を積み重ねたい。

 

“正しさ”に縛られていた頃の私へ。
あなたは間違ってなんかいないよ。


でもね、もう、そんなに頑張らなくていい。