先日、高野山を訪れました。
目的は奥之院の空気を確かめること。
最初に訪れたのは2016年の今頃。
その年の秋、翌年の初夏…っと内なるブームでした。
ねこ福を始めてからは契機なく、動機を起こす隙もなくご無沙汰に。
今年は生誕1250年だそうで情報に触れる機会も増えました。
番組を観ていて『あれ?あの頃の感覚忘れてしまってる…。』と驚いたのですね。
いつだってお遍路で得た学びに立ち戻って道を選んでいるつもりでいたけれど、「なにか」が伴ってないなと気が付いた。
こりゃいかん。
知識や考え方を保持するのは比較的容易なこと。
でも、どの領域に「心掛けを調律して」語る、行動する、思考するかでやってることの意味合いはガラリと変わる。そのことを思い出した。
調律するには、目指してる周波数を発信している人に会いに行くしかない。
記憶を辿って音合わせするなんてできない。楽器も調律には音叉が要る
弘法大師に会いたければ奥之院へ。
そこにはお大師様が置いていかれた周波数が今なお響いているのかなと思って。
到着して真っ直ぐに奥之院へ向かいました。
最初に訪れたときのような驚きと高揚感の記憶に辿り着くのかと思いきや、そうでもなかった。
取り留めもなく景色が視界に入ってきて、初めて訪れる場所かのような新鮮さ。
昔は周囲が全く見えてなかったのだなぁっと呆れ返る。
これまでに夜2度、昼間に2度訪れてるのですよ。5度目なのに…
あの頃は自己の内側に答えを見出そうと、社会生活はほぼうわの空だったらしい。
世の中の成り立ちを知り、何故?に納得する答え見出さすにはおられず。
それなしには生きられる気がしなかった。
おまけに会社辞めた直後でもあった。
ねこ福をやると決めて、常識を逸脱する選択を自発的にやってのけたときだった。
ま、細々したことを覚えてなくて当然か。
あれから7年。
スピリチュアルブームの裾野が広がったようで、奥之院の雰囲気はすっかり変わってました。
レジャースポットだな。
参道をキャリーケースをガタガタいわせて歩く人。
地図を片手にお墓探しする集団。
御廟前で「ええ声でお経あげてもらったら空海さんも気持ちええやろなぁ、お坊さんの読経コンテストとかやってるんかな?」と、大音量の家族談話。
投げ捨てるようにお賽銭を入れていく人。
ほぉ。
これも良い悪いと判断するなっというお大師さんからのメッセージなのでしょう。
かつてはお遍路のお礼参りで訪れる人が半数くらいを占めていた。
南無大師遍照金剛と書かれた白衣を羽織られてるのでわかる。
旅路の無事、お導きへの感謝をすでに実感してきた方々が、感慨をもって訪れる。
その姿に触れると周囲の人たちもおのずと心改まったのではないかな。
夜な夜な御廟前で読経を続けていた青年、翌日訪れてもまだそこで唱え続けてた。
奥之院とはそういう聖域なんだと思ってた。
落ち着かんなぁと思いながらもしばし留まり、越し方を振り返り物思いして過ごすも、これといったまとまりもなく。
ねこ福に居るほうがよっぽど心静まる。
日常より俗にまみれたなっと、ちょっとおかしかった。
ま、そういう自分もここでしか食べれない胡麻豆腐も目的のひとつだったし、ここでしか買えないお線香も買い込んだ。
程度の差あれど人は欲を楽しみに生きてるもので、みな同類。
楽しみは即身成仏には必須の営みなり。
…などと思ってみたけれど、やはり奥之院詣に物足りなさを感じて宝物館に立ち寄って帰りました。
快慶の四天王も見事だし、庭の紅葉の彩りも見事でした。
ナビを新調したらルートがめちゃくちゃ短縮され、2時間半ほどで帰宅可能に。
帰ってから気がついた。
心のなかに深い静寂がある。
そうだ、これはお遍路を巡っているときに体感した感覚。
その静けさを根拠に身の回りを見渡せば、答えはおのずと感じられてくる。
導き出すのではなく、感じられてくる。
あ、これだ。
けたたましいノイズに気を取られていたけれど、必要な音階はちゃんと届けられていた。
これだから…お大師様は生きているっと言い伝えられるんですよね。
ありがとう、お大師様。
大切なものは目に見えないというけれど、大切な思いも耳に届くとは限らないのですね。
On ne voit bien qu'avec le cœur.
「心で見なければ、ものごとはよく見ない。」星の王子さまの一節。






