今日はクリスマス。
イエス・キリストの生誕をお祝いする日。
街のイルミネーションは活況を取り戻したというのに、真面目に想いを馳せるとなるとサーッと深い哀しさが迫ってきました。
お祝いの舞台となる肝心の生誕の地のことを、今年はさすがに直視せずにはいられないですね。
7年前、イスラエルを旅しました。
旅というにはほんの上っ面しか見れておらず、ただの観光旅行でしたけど。
ちょうど「地球の歩き方」もイエス・キリストの足跡を辿る旅程を推していて、師匠もそれがいいんじゃないかと勧めてくれました。
わたしは宗教紛争にどうも関心がある。
だから宗教の輪郭を把握するためにその懐を知ってみたいって衝動がある。
9.11のテロが起きたとき、すぐさまイスラム教についての本を図書館で借りて難解なりに頭に叩き込みました。
世に流布しているキリスト教とそのルーツの地で受け取る感覚のギャップを探ってみるのも、そういった関心ごとの一環でした。
キリスト生誕の地ベツレヘムはイスラエルに行くならどうしても訪れたかった。
キリストが布教活動したのは現在イスラエルと呼ばれている地域だけど、生誕地は今でいうパレスチナ自治区なんですね。
ガザではなくもう一方のヨルダン川西域。
「壁」の関門で拳銃を携えた軍人が並ぶなかパスポートを提示してイスラエルからパレスチナ自治区へ向かいました。
生活道路キワキワに建つ「壁」
壁に設置された監視塔はイスラエルの管轄
ものすごい圧迫感
観光地であり聖地でもあるベツレヘム界隈は穏やかなほうだとガイドさんは言っていた。
いや、それにしても暑苦しいやろ。不自然やろ。。
壁を隔てたパレスチナ側は、何かとても懐かしい感覚がありました。
例えていうなら日本の温泉街のような風情を感じるというか…。
歴史がタイムカプセルに包まれて流れているような、時間が止まった感があったな。
裕福な感じはしないけれど、荒んでるふうもなく。
確実に脈々とした歴史が継承されている穏やかさがありました。
瀟洒な建物のほどんどが空き家に。
財力のある人はパレスチナを離れていくからなのだそう。
そんな地に「降誕教会」はありました。
清楚で美しい。
欧米キリスト教圏で感じる宗教の威厳とかカリスマ性とはかけ離れた、素朴な空気しか感じない。
政治的に利用され世界中に伝播されていくなかで、誇大解釈、畏れ、縋るべき対象、そんな色が塗り足されていったのだろう。
そんなことが確認できたのでした。自分なりの解釈ではありますが。
どんな宗教もことの始まりは純粋な素朴な「当たり前」を説いているのでしょう。
その純粋さを受け継いで伝承することが難しい。
凡人の理解力に合わせて様々な流派にも分かれていく。
軍事を仕込む集団がそこにつけこんで紛争の火種として利用する。
こんな構図で世界の紛争は起きていくんだよね。
だんだん理解できてきたこの頃です。
宗教に「当たり前」に立ち返る心を養う力があれば、政略利用されるには至らないのでは。
団体を育てることが目的にすり替わると、殻に閉じ籠った視野となり敵を作ることになる。
それが自然であるか(「当たり前」であるか)を見極められたら俗に言われる宗教なんて要らないと思うんだな。
イスラエル側からパレスチナを望む。
荒みきった大地を緩衝帯として「壁」が延々と続く。
不自然やろ。
エルサレムから首都テルアビブに向かう高速道路は延々と有刺鉄線で守られている。
不自然やろ。
イスラエルという国は不自然で守られている。
そのすぐそばにイエス・キリストの生誕の地はある。
この矛盾。
たまたま今年はハマスをきっかけに惨事が拡大しているけれど、パレスチナの惨事はずっと続いている。
ガザ地区にもあるであろう温泉街のような温もりは、ハマスのせいでという口実の元徹底的に破壊されるんだろな。
そしていつかそこにはイスラエルの街が再建されるのではなかろうか。
キリストの生誕に救いを求めてお祝いする日とされてるけど、そもそも他者に救いを求めるものではない。
答えも平穏もそれぞれの内側にある。
降誕教会のピッツァバッラ総大司教は今日、
「私たち1人1人が苦しみにとらわれ、憎しみ・憤り・復讐の精神が心を占有し、
他者のための心の居場所が失われている。」
っと、クリスマスミサで述べたのだとか。
クリスマスイベントは華やいで心浮き立ち楽しいけれど、そんなお祝いをイエスは心底喜んでいるのだろうか?
ふとそんな思いが湧いたのでした。
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