a cup of tea
子どもの頃、小学校の体育の授業の後とか遊んだ後、校舎の外に備え付けられた水道から、ごくごく飲んだ水の美味しさ。
今でも思い出せるくらい、小学校の水だからタンクに溜められておそらく塩素がたくさん入ってただろうあの時の水よりおいしい水は、あれ以来飲んでないかもしれないって思い出す。
タイチロー(義父)が存命で元気な頃、畑仕事や庭仕事の合間に、うちのキッチンのすぐ外にある外水道からジャーっと出した水を飲んでは、「あ゛ーー旨い!水が!」って漏らす声が、家の中にいるわたしにも聞こえてきて、(わかる・・)と、あの小学生の頃に飲んだ水に思いを馳せてた。
外水道だから浄水器も通してない。
なぜこんなことを書いてるかと言うと、先日入ったカフェで頼んだミルクティーがあまりにも美味しくて、美味しいものはやはり全わたしで存分に味わおうとするでしょう?
そのひと口ひと口、香りやミルクのきめ細かさや風味、舌触り、温度、喉から食道へと伝っていく感じ。
そんなのを大切に味わってたら、いまここのど真ん中で身体が開いてしまって、涙が止まらなくなった。
この感覚。
もう何年も前、まだコーヒーの飲める身体だった頃、たしか青梅の方の川沿いにあるお店で、窓からその川の流れや木々の緑を眺めながら飲んだコーヒーがほんとうに美味しくて、やっぱりパッカンと開いてしまい、丸二日ほど頭の思考が止む、永遠のいまここ状態になったことがあった。
コーヒーは波動を落とすとか言うひともいるけど、そんなの噓じゃんってなったのを覚えてる。
先のミルクティーやこのコーヒー、淹れてくれたひとがどんなに丁寧に愛をこめて淹れてくれたか。
そんな向こう側の情報までいっしょに身体の中に入ってきて、泣けて仕方なかったし、こう書いたら大袈裟に聞こえるでしょうけど、細胞が震えた。
瞬間瞬間のひとつひとつを味わい尽くすこと、トータルにいまに在ること。
くつろいでいなさい。身体から始めなさい。
まあ一杯のお茶を飲みなさい。
OSHOからうるさいくらいに伝えられて、頭の理解でしかなかったものが
水を飲むこと、日々のお茶を飲むこと、身体に在ることを通してドスンドスンと腹に落とされていく。
日々の何でもないことにどれだけの愛が隠れているか。
愛でしかなかったか。
この生が、祝う以外にないものだったか。
身体はとうに知っていた。
あの小学校の外水道で飲んだ水をもう一度味わえる身体。感度。
瞑想はそれらをふたたび育て帰る道だろう。


