というのは、今の常識では「ごくあたりまえ」のこと。
小学校の夏休みに朝顔を育てましょう!という宿題があったときは、
毎日の水やりが日課だった。
野菜を得るためには「お世話をしなくてはいけない」ものだというのが常識。
売られている野菜は、スーパーの「安い」ものか、「お手間入り」のちょっと高いもの。
違いは、なんというか「より工業的で効率的なものと、どっちかというと情緒的なもの」ということで、
たくさん肥料をあげて、お水もあげて管理していることには変わりありません。
そういう社会そのものは私はウェルカムです。
スーパーに行けば何でも揃っていて便利。

私は自分の畑から野菜を持って帰ってくることが多く、食事の支度は「野菜洗い」からはじまります。土でしょ、洗っても洗っても出てくる虫でしょ、時間もかかるし水も使う。
……そんな毎日をしていると、スーパーの野菜を買ってかえってきたとき、「なんてラクなんだ~~」とありがたいです。
ただ、野菜も畜産も養鶏も魚の養殖もそうなのですが、
人が用意したエサと水を毎日あげて、環境もみんな人が整えて……
というのは、「こうなるのですよ」と答えを与えているように思います。
肥料あげて水あげれば大きくなるのはわかっているし、
甘さに需要がある今、いろんな野菜でどうすれば甘くなるかも技術でできるわけですよね。
だったらもっと技術が進んだら、今度は辛くしたりすっぱくしたりもすることができる「可能性」もあるってことですよね。
実際、私が知らないだけで技術はそこまで進んでいるかもしれません。
それって、答えを用意している、ってことじゃないかなと思います。
工業製品だったら、答えを用意して、その通りになるようにラインを組んで、答えのとおりにできないといけないのですが、野菜や牛、豚、鶏、魚は「命」です。
私たち地球上で生きるものの命をつなぐ「命」が、工業的なもの「ばかり」でいいのかな?と思います。
私は子育てをしたことがありませんが、
大人が「どういう人になりなさい」と答えを用意するのではなく、
子どもには挑戦する楽しさ、ものごとを知る喜び、人に思いを寄せる心、まわりの人と強調する心が育つ環境を作ってあげると、大きな意味での力がある人に育つと思うのです。
そして、その中に「個性」も現れる。
それと、同じような感じかな。
野菜も「個性」があっていいですものね。というか、それが普通。
今年の冬は、流美農園では野菜が大きくならず、なんだかしょぼーんとしていますが、
やっぱり私の畑では、私が答えを用意するのではなく、
野菜が他の動植物と協力して自らも生き他者も生かす、という環境を整えるというスタンスです。
環境が豊かになってきたら、自然と野菜も変わってくることでしょう。

えんどうやキヌサヤ。わさっとなってきました。
