言葉は、世界を切り刻む。
ここからここが、「母」
ここからここが、「空」
ここからここが「家」
どうしても、
境界線を伝えることになる。
だけど、子供に
「お母さんの絵を描いて」
と言うと、
お母さんも、家も、空も
1枚の画用紙に描いたりする。
それは、
子供から見た“お母さん”は、
それらが一緒になったもの
に他ならないからだろう。
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これは、
アートは言葉への反発だと
捉える考え方に添えられていた説明である。
なるほどな、と感じた。
考えてみれば、
人が何かを感じる時、
世界を切り取るのではなく、
世界をそのまま関連付けたまま
全体として受け取っているはずだ。
だから、
どこからどこまでが“お母さん”
とかじゃないんだよな。
それを無理やり言葉にするは、
一枚の画用紙に描いた
かなりの部分を
切り捨てざるを得ない。
私達は、
コミュニケーションとして、
毎日言葉を使うが、
それは、
自分の大切な部分を
切り離して渡すことでもあり、
無意識レベルで
ストレスが隠れているもの、
じゃないだろうか。
そうして切り取った言葉が
世界やネットの中を
駆け巡るうちに、
伝え手の好きなイメージを
吹き込まれて
誤解されることもある。
あげく、
「あなたは確かに
〇〇と言ったじゃないか!」
と責められれば、
そりゃもう、
何も言い返せない。
《言質をとる》という、
現代社会の大得意のヤツ、
である。
しかし、
そもそも言葉単体で出来ること
というものは、
大したことではないのだから、
そこで喧嘩せんでも、、、
と最近よく思う。
そういう意味では確かに
自分の中の
いろんなものにくっついた景色、
五感を含んだイメージ、
感情をともなう
体の一部や全体を包んでいる感覚、
そんなものを表現するのには、
アートがピッタリだ。
言葉だけの飛び交う世界、
イメージや感覚を伴わない
やりとりだけでは
やがて行き詰まる。
本当は、
最初にあったのは、
それぞれの豊かな
内面世界であろう。
一番恐ろしいのは、
言葉ばかり使っているうちに、
そんなものは初めから
(自分の中に)なかったんだ、
と勘違いして生きることだ。
言葉が、情報が、無限に増幅して
人間の数をはるかに凌駕する
この世界。
アート無しに、
自分を見失わないでいるのは
至難の業かも知れない。
ここまで書いてみて、
沢山の言葉を器用に繰り出す人より、
ありきたりの言葉であっても、
自分のリズムで生き生き話す人から
伝わることが多い、
と私が感じる理由が、少し分かった気がした。