わたしは「先生」でも「師匠」でもなんでもなく
まだそのような立場にはいない、と思っとおります。( ´∀`)
ありがたいことに
ときおりその呼称を使って呼んでいただくことがあるのですが
その名称には、自分はふさわしくないと自覚しています。
先生でも師匠でもなく
ただ知識を先に知って、経験を積んでいるというだけです。
そして
後陣の方たちは先達を超えていって良い
いえ、超えていくべきだと思っています。
いつまでも誰かを倣うものでもない。
誰かがいなくてはいけないという意識では
なかなか成長しないでしょう。
「創始者の近くにいて、いつも優位に学べるじゃないですか」
と思われるでしょうが、
技術的なことの会話はほとんどなく
特別扱いなどされるはずもなく
個別授業などもありません。
だから、自分自身で貪欲につかんでいくしかない。
誰かの言った言葉を遵守するとか
方法論をそのまま取り入れるより
自分自身が日常や仕事のなかで気づくことが
学びです。
本質っていうのは、なかなか伝えられないし
どんなに本を読んでも腑に落ちるものではなく
実際のあり方を真似ぶ中で気づいていくしかないと思う。
真似ぶというのは、行動なので、知ることより
自分自身がやっていくしかないのです。
赤子のように口をパクパクさせて、
「もっと知識と技術をくれ~」
と言ったとしても、あまり学べないでしょう。
自分自身の行動するプロセスで
ときに自分をいましめてくれたり、
発奮させてくれたり、
A-HA!という深い気づきがあったり、
慰めてくれたりするのが
先達の言葉や知恵であって
それはおのれの行動を通してでしか
気づけないものです。
そういう意味で、師や先生とは
ガイドのような役割をしてくれるものですが
なにより自分自身が持続的に会得していこう、つかんでいこう
という意識が大前提として必要です。
(ここ強調)
つまり言い方を変えれば
意識次第で誰でも師になり、先生になると思います。
それこそ両親、子供、ペット、近所のおじさん
社会的な情勢や時の政権などなど、なんでもから学べる。
社会的な権威や有名だからという理由で師を選択しても
なかなかどうして、得られるものはさほど多くはないでしょう。
実際何をやっても変わらないという方ほど
表面的な名称や権威に弱く、
あまりご自身で何もしていないことがよくあります。
「では、わたしは何をやったら良いのですか?」
という疑問が出てくると思いますが、
特別に何かをするのではなく普段やっている日常の行動を
そのような意識でやりましょう♪
ということです。
特別なことをするのが学習ではありません。
日常をどのような意識と態度で生きるかです。
ものすごい著名な先生から学んだから
ものすごい学びが得られるわけでもなく
理想的な環境にいるから
理想的な生き方ができるわけではなく
特別な術を会得したから
特別なことができるわけでもない。
そういった理論や外付けのものは、二次的なものです。
本質的な学び、変化は内的な気づきがなければ、得られない。
何かを学ばなければならない、学びたい
変わらなくてはならない、変わりたい
という前にそういうことを肝に銘じておいてください。
誰を師や先生として仰ぐかというより
どんなときでも
何に対しても
学んで生きるという
意識が重要なのです。
2017年4月28日本栖湖からの富士山🗻
