柔術を練習していて、面白いと思ったことの一つに、
顔の向いた方向にしか、身体が動けないと指導されたことがあります。
身体を動かそうと意図すると、無意識的に顔がそちらの方角に向かうのです。
そうすると、同時に死角が生じます。
自分の顔が行く方向に意識が囚われているすきに、
うっかり虚を突かれることになります。
手品も同様ですよね
たいてい、手品師は観客を片方の手の中や、トランプカードの表面といった
特定の場所に視線をフォーカスさせて、そのすきにこっそりと何かしているものです。
意識できない場をあえてつくり出し、そこを狙う。
意識は制限された対象にしかフォーカスできないという特徴を、逆手に取った手法です。
わたしたちにも、気づいてなかった、気づきようがなかった観点に、
自分自身の弱さがあるものです。
施術では、気づいていなかったことを気づかせるよう促すこともしております。
ときには、気づきたくない嫌な面、認めたくない弱い面が露わになり、
痛みを伴うこともあります
痛みや苦しみは、何かを伝えてくれるメッセンジャーです。
何に対して自分が痛みを感じているのか、どのような観念を持っているから苦しいのか、
気づく機会になります。
その痛みは、思春期のときの成長痛のように、
その人の進化を支援してくれるのだと思っています。
定期的にいらしている方の、施術の感想です。
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生き方を問われている。
その生き方、ものごとの感じ方などが、身体にパターン化して出ることに気づかされる。
疲れるのは当たり前だ。
ただ、その疲労の度合いを、自分の構築次第で振れ幅、揺れ幅を小さくすることができるかも知れない
自分次第 時間がかかるのか、早く変容していけるのかは。
真剣だから怖い、怖いけれど、今までのパターンに疲れ果て、新しいほうに好奇心と希望を持って進んで量子場へ向かったのですから、その覚悟を確認した。
人は必ず死ぬ。
そこまで、誰をも恨むことなく、何のために自分が生を受け、今生の課題を持って生き抜くか、そのとき、身体が(身体のほうが素直だから)先に病気や朽ちてしまい、目的を達成できないという無念を残さないため、肉体を構築する術の一つが量子場だろうと気づかされる。
山登りに例えると、今、私は色んな意味で5合目くらいだろう。下界や、全体が見えるまでもう少し。
この頃、言葉やつらい思いをすると身体全体が痛むようになった。痛いのだ。
朋美氏と真剣に対峙した後、頭も身体も痛くなった。
これは気付きのサインでしょう。
鈍感になれということではないだろう。敏感は感性のするどさと紙一重だ。
生かす方向へ。創造する方向へ。身体を壊すことなく。
あと数回で治療は終わりだが、父母(祖先)のDNAがどんなに厳しく気高く、鋭く、敏感なのかを実感する。
感情というもやもやしたばかばかしく見えるものが、実は人間一番、見えない難しい所。
そこからストレス、病気が起きる。
朋美氏、感情を超えている。年下だが、それは認める。
非常に科学者的である。
2ちゃんねるとかテレビとか、人から浴びた過去のひどい言語を自分が取り入れてしまっていた。
それが具合が悪い状態の時に出る。それは本来の私ではない。
多くの人が浸食されている。
その言葉を選ばない生き方や自分に戻れる余裕を持つよう、構築するだけだ。
自作自演乙 までもう少し。
でも、人生は自作自演だ。死ぬ時に、お疲れ、楽しかったね、と自分に言いたいね!!!