吹田・関大前 「静心庵」・僧侶の淨華です
法事に招かれた時や、急なお葬儀やお通夜の時に、
またお墓の話や諸々の仏事のことを、近くに気軽に聞ける人がいない。
そんな時のお助けになればと思って書いています。
仏事の決まり事などは、各宗派によって様々に違うものです。
ご自身の宗派に従って下さい。
あくまで、こちらに書かせて頂いているのは、浄土真宗の仏事・行事・作法の事
となりますので必要なところだけ、読んで下さいね
さて今回は「葬儀と迷信」についてお話します。
あくまでも浄土真宗の教えからの考え方でお話致します。
葬儀というのは、決して亡き人とのお別れを告げる儀式ということだけには
とどまりません。
身近な人の死という現実を誰にも避けられない事実として真剣に受け止め
その人の生涯を偲びつつ、私たちの生きる意味を仏さまの教えに問い訪ねていく
という厳粛な儀式なのです。
にもかかわらず、葬儀(枕勤めや通夜を含む)には、
仏教と無縁で、逆に人の心を惑わす迷信や奇習などが、
まことしやかに行われるのを多く見かけます。
例えば・・・
・魔除けと称するお守りをお棺の上に載せる
・一膳飯やお水を供える
・出棺に際してお棺を三回まわす
・生前故人が愛用していたお茶碗を割る
・火葬場の行き帰りの道を変える
・火葬場での飲食の残りはすべて置いて帰らなくてはいけない
・日本酒を「お清め」と称して飲む など
また、「お清め」ということで言うならば、ほとんどの通夜・葬儀の際には
お礼状と共に「清め塩」と書かれた小袋が会葬者に渡されています。
この「清め塩」で、いったい何を清めようと言うのでしょうか?
もしそれが、「死」のけがれを清めるという意味であれば、
亡き人は、汚(けが)れたものとなり、葬儀自体も汚れた行為となってしまいます。
生前に親しかった人も亡くなれば「汚れたもの」として「お清め」することは
まったく道理に合わない痛ましいことです。
果たして死者は、汚れているのでしょうか?
仏教では、身近な人の死という現実の中で、死という事実を静かに受け止め、
深く考え見つめていくことこそが、今を生きている私の生きる責任であり
また人間としての大切な生き方であると教えているのです。
大切なことは、生まれる・老いる・病む・死ぬという人間の予測できない事実として
「死」を受け止め、残った一人ひとりが生きる意味を見出すことなのです。
私たちは、現に風習として根深く残っている迷信や奇習を明確に
否定していきたいものです。
【仏事の豆知識】過去の記事も参考に
■法事の時の包みもの(お金を入れる封筒)について
■法事の時の持ち物と服装について
■念珠(数珠)について
■お焼香について
■お墓の正面に刻む言葉は
■鈴(りん)について
■とり急ぎの弔問について
■お墓と迷信について
■納骨について
■お墓とは
■法事のこころ
■彼岸会のこころ
■通夜参列の心得
■葬儀に参列できないとき
■お仏壇とは何ですか
■亡き人へのお膳はどうしたらいい
■お仏壇の中に入れないものは

