苦言を言う人は優しい。
但し、苦言の動機が
「自分が嫌だからと言える人」か、
「言葉にしないが、相手の未来のために言ってるのが伝わる人」の苦言に限る。
すまん。
話のテーマを変える。
苦言?を言う人
(my 負バージョン)↓
たまーに、苦言の中に私が嫌う背景を持つ人がいる。
己(相手)の コンプレックスだったり、
ストレス 、利益損得感情事情で、私を自分の都合よく操作したいとかね。
そういう人間がいるって思いもしなかったから、自分を責めたし、萎縮もするし何度も失敗したよ。
今の私は、そういう人の相手は一切しない。
良くも悪くも関係を持つことは、相手の思うツボだからね。
自戒を込めて書くよ。
「かまってちゃん」は、相手からの反応が欲しいから、それがどんな感情であれ振り向かせたら勝ちなんだと思う。
たから、内心めちゃくちゃ腹を立ててるけど、努めて笑顔で愛想良く全力でスルーしてる 。晩年にはいってスルー能力を身につけるなんて、我ながら幼いよね www
「相手にしない」って、正直、楽。
かまってちゃん、自分に噛み付く、仇なす人を構う(怒り、同情、助けるなどを与える)人は、関係を続けるから、優しい。
私は自分可愛し身勝手な人間だから「共依存」が何よりも怖いから躊躇しない。
他人から、冷たいと言われたとしても、悩まないし、揺るがないね。まだ言われたことはないけど「冷たい」と非難されたら、ソイツも同類と見なして切るさ。
私は我が身が1番可愛いんだもん。
自分が助けられない人間を助けようなんて、慈愛の精神持ってない。
自分を守れない人間が他人を助けられるわけがねーだろ!
本気で助かりたい奴しか助からない。
助かりたいと思ってても、人の助けに気づけなかったり、自ら助けを振りほどいちゃったりするしさ。。。
病気、事故等、寿命に関わることは別ね。私にはわかんないの話だもん。
博愛精神晒して、他人の闇に自ら落ちたくない。誰かに縋りたくなるのも人の定。巻き込まれる側にも問題がある。
自分が招いた「人生の穴」なら、自分が負うしかないが、なんで好き好んで他人が作った「落とし穴に一緒に入る」必要がある?
(懲りた)
自分がそいつを救えるかどうか?
手を出す前に、手を出した後でも遅くないから考えろや。
そいつが「本当に助かりたい奴」なら、自分ではない「本当にソイツを助ける力のある奴」と出会えるハズだから。
私がソイツのことを友達だと思ってたら、「真の助けとなる者」との縁を紹介する。
紹介するだけで、縁を繋ぐかどうかは本人に任せる。
そいつの人間関係で他に適役がいるのなら、私は安心してソイツを手放す。
私がかまうことで無駄に長引かせたり依存させたくない。
友達でもなんでもなければ、「縁をもたない」「逃げる」一択だろ。
よく、文末に使われる
「ご自愛ください」
この言葉の意味をもう少し考えて欲しいなぁ。
最初に助けるべき人間は「自分」だ。
自分を「助け」「守れない」人間に、他人なんか助けたり守ったりなんて出来ないんだよ。
全部、私の過去の失敗談、教訓。
忘れたくないから、自分に向けて訴えたくなる。
私も「いつかは助ける側に」と、憧れたこともあった。
残念なことに私はまだ「救われたい人」。
これは私の考えなんだけど「救われたい人」が誰かを助けるのは無理だと思ってる。
「救う人」と「救われたい人」では、同じ世界なのに観ているモノが違うんだよ。
うまく言えないけど、視点の次元が違うんだ。
だから、私は「自分の身の丈を知って余計なことをしないのも、関節的には人助けになる」って信じて、頑張らないを努力中。。。
(まだ境界線が緩い)
人はそれぞれ、自分の能力で生きていいと思うんだ。
能力を嘆くと悲劇じゃん。
散々、苦しんだ結果の今。
明日になったら、また自分の不能を嘆いてるかも www
本題
苦言を堂々と言える人は優しい ↓
私は、相手がどんなに人格か私より上な人であろうと、苦言に腹を立てる www
文句を言い、根に持つ www
苦言には、私に反論の余地がないものも、当然含まれる。
私がムカついたところで事実(現実)は変わらない。
私がムッとしようが気にも止めず、イケシャーシャーと理に叶った苦言を言ってくる奴が私は好きだ。
腹が立つのと、好き嫌いは別。
苦言と、好き嫌いは別。
苦言の内容よりも、その苦言を言うに至った背景(感情)が大事。
苦言には、大事な情報がぎっしり詰まってる。
相手が自身を取り巻く損得感情で私を動かしたい背景がみえたら、苦言を真摯に受けとめ?、さらに相手から情報を引っ張り出す。
相手自身の心の闇が苦言の背景に見えれば「正体をバラしてくれたおかげで迷いが消えた、この親切は忘れない。ありがとう」と、心の中で感謝しつつ、全力で逃げる。
私の欠点を理解した上で、イケシャーシャーと苦言を言う奴は好きだが、苦言は苦言だ 。言われた瞬間、腹は立つ www
しっり根に持つ www
今の私が自分に見えてないものを、教えて貰ったところで私に理解ができるわけがないだ。
だけど、忘れないで胸に留めておいたら、いつかわかる日がくるだろ。
その「いつかわかる日がくる」が、帰り道の日もあれば、10年かかったこともある。
忘れないで覚えていたら、いつかわかった日に、ドヤ顔で報告できるってもんだ。
苦言は否定はしないが、
「わかんなかったら、わかんないまま」持っとく。
淡々と、書いてるけど、
「私が腹を立てる」ってことは、どのパターンであっても、傷ついてるんだぜ。
正しい苦言を言う相手には、私も甘えて文句が言いやすい、自分を繕う必要がないからな。
ただ、甘えすぎると「かまってちゃん」になるから、捨てられたくなければ、ほどほどにな。
優しい人は、縁を切る前に苦言を言う。
だから、馴れ合ってその苦言の意味を有耶無耶にしてはいけない。
そのとき、苦言の意味がわからなくても、もがいて努力をしてる限りは捨てられない。
私は優しくないから、苦言を言わずに縁を切るけどね www
もう少し、確立した自己を手に入れることができたら、私も苦言を言える人間になれるかな?
手にしてないモノは分からない。
いざ手にすると、想像と全然違うモノが多すぎて、変なロマン(夢)は、控えたい www
私も立派な「夢見る夢子ちゃん」さ 。
人は、それぞれ持ち物の割合が違うだけで、人が持つ性格だったり、特徴の全てを持ち合わせているんじゃないかな?
私の想像だけどさ。
だから、集合的無意識なるものが実在してたとしても、不思議じゃないのかな???
人類全員が大なり小なり、人の資質の全部を持ってるとしたらさ。
自分の嫌な部分とかさ、心の中で
「大なり小なり割合違うけど、オマエも持ってるじゃん」って言えるよね? www
他人の天才的領域をさ、心の中で
「割合違うけど、私だってちょっとは持ってるもんね」って言えるよね? www
今さ、コレ書きながら心の中の私の偏見、全部、ブーメランで返ってきてるじゃん www
ぜーんぶ、大なり小なり、みんな持ってるとしたら、人に偏見持ってる場合じゃないよね www
私、自分の一括りに決めつける偏見を無くす努力はするけど、個人の好き嫌いは自分に制限かけないって誓う![]()
好きなものは好き。
嫌いなものは嫌い。
嫌いなものは、近寄らなければいい、見なければいい。
嫌いは、大昔は危険予知? 危機管理のひとつだったと思うんだよね。
それを見ない振りして、善人ぶって、どれだけ私が痛い目にあったか www
これは、自業自得で誰も責められないんだけどさ。