こんばんは
naomiです。
今日は生徒さんの数秘で紐解くバイオグラフィーのご紹介です。
レポートを書かれたのは 川南珠美さん
誰をレポートするか決める時に 100人以上のチャートを出してタモリに決めたという強者の彼女。
数秘を教えて以来 そんな人は初めてでした。
子供から大人になる時期
揉まれる環境を設定すると言われる 8を持つ人
レポートを読ませていただきますと
タモリさんも そのような環境にいらっしゃったことがわかります。
4と8 タモリさんと共通の番号を持つ
珠美さんの 数秘で紐解くタモリさんの半生
読んでいただけたら嬉しいです。
タモリ
日本の男性お笑いタレント、漫談家、司会者。本名は森田一義(もりたかずよし)
福岡県福岡市出身
血液型0体長161cm
1945年生まれ 8月22日生まれ 満年齢73歳(2019年7月現在)
芸能界へ引き出してくれた恩師、師匠は 赤塚不二夫。
代表的なレギュラー番組は、ミュージックステーション、タモリ倶楽部、笑っていいとも!
今夜は最高、世にも奇妙な物語、トリビアの泉、タモリのボキャブラ天国、ブラタモリ(順不同)他多数。
あなたはタモリの印象、特徴として、何を挙げるだろうか。
長寿番組の司会者、穏やかでインテリジェンスのある紳士、真っ黒なサングラスとテカテカのオールバック。
私の彼への印象は小さい頃観ていたテレビの印象が大きい。「昔、なんとも言えない不思議なモノマネをしていた 薄気味悪い謎の男」
片目のアイパッチ、床を這いずり回るイグアナの不気味な動きのモノマネや、何を言ってるかさっぱりだけど可笑しい朝鮮語のラジオモノマネ。
そもそも、彼は、その奇妙な芸が買われ不思議な縁で芸能界に呼ばれ今に至っている。縁が縁を呼び、その縁を淡々と受け入れビッグな芸人と
争うことなく共演し続け時には司会の冠番組にもかかわらず目立たない立ち位置にいるなどして
長年に渡り番組を存続させる安定感や独特の間合いをもち、半ば引退に近いような形で惜しまれた長寿番組終了後もなお、
不思議な親しみやすさと安心感から、多岐にわたる趣味や興味の場に呼ばれ、今なお人気は不動の地位を得ているのである。
5つのコアナンバーからみた タモリの資質、才能、欲求、使命
⑴ 誕生数 〜生まれ持った資質、才能、能力。当たり前にできること〜
【22ー13ー4】建設、固定、形成、継続、規律、秩序、信頼、プロセス
5歳が俺の精神的ピーク、と冗談めかしていうほど幼少期より大人びていたという。
幼稚園入園前に 見学に行った時にお遊戯の練習をする園児を見るや自分には無理と
入園拒否をした彼はその後小学校に上がるまで、毎日家の前の急な坂道に立って
人間観察を飽きることなく続けていたという。マスターナンバー22を誕生数に持ち合わせているのは強いインスピレーションや感受性からくる彼の高次の創造の力を表しているだろう。
決められた遊戯よりも様々な人の交錯を観察したり、坂道を通して時間や景色の移り変わりを楽しむ観察のプロセスが何より楽しかったようだ。のちに坂道好きが講じて日本坂道学会を設立するが 坂道鑑賞のポイントを4つ定めている。
勾配の具合、湾曲のあり方、江戸の歴史、景観風情の出すものがあるか、名前の由来や由緒を、自ら調べて感じ取れるかだという。幼い時からそんな視点で坂道を眺めていたのだとしたらなんて大人びているのだろう。
カルミックナンバー13をも持ち、障害多き修練のナンバーとされるが過去生での縁深い人との出会いもあるとされる。
彼の場合は、呼ばれていくうちにいつの間にか芸能界入りした経緯があり、深い繋がりが感じられる人物が多数存在する。
4のもつ性格パターンとして一つのものを長く熱中する型であることがあげられるが、穏やかに淡々と継続する才能に長けていたからこそ、たくさんの長寿番組をもつ、極めて稀な名司会者としての地位を確立することができたのだ。
⑵ 運命数 〜社会、対外的における役回り、使命、目的。〜
【13−4】建設、固定、形成、継続、規律、秩序、信頼、プロセス
誕生数4で与えられた才能をどう活かすべきか?それはカルミックナンバー13が表す破壊と創造を持って
常に新しい何かへのチャレンジと受け止めてきた彼の人生そのものだ。古い価値観や執着を、ことごとく捨てて環境を変容し続けたタモリ。
彼は早稲田大学に入学する際上京し、モダンジャズ研究会に属し司会として買われるが、学費滞納で除籍になり祖父に福岡へ引き戻される。
そして3年ほど朝日生命の外交員として勤務し 26歳で同僚の女性と結婚。旅行会社に転職してさらに子会社に転属になり、系列のボウリング場の支配人にまでなる。がひょんなことから喫茶店のマスターに。そしてこれが町中でちょっとした変わり種の喫茶店として有名だったことから、変わった面白いヤツとして早稲田ジャズ時代の知人が探し当て
面白いことをやってくれとカンパ集めてまで東京へ呼ばれるようになるのが30歳。逆らわず考えず流れに従って行く。
成り行きまかせとも言える彼の身の振り方は、堅実で秩序や規律といったキーワードの4からは想像しにくい運命だ。
しかし彼は常に自分の面白いと思ったことを優先した。孤独には走らず、求められれば誰とも戦わず和を持って実直に応えていた。
それがどんなに突飛な依頼でも淡々と受けることで彼の地位やお金が安定していく使命なのだろう。
#13は修練のナンバーとも読むが、1のもつ絶対的な存在性や3のもつお茶目な遊び人、人を和ませる資質の部分が強く大きいように思える。
また、誕生数と運命数が同じであることは、自分が当たり前にできることと、社会から応援され求められるままに取る行動が一致しているため
やっている行動そのものに無理や矛盾がない。成功をおさめる芸能人や著名人には多く見られることだ。
彼は幼い頃からの真面目な視点や観察から生まれたマニアックな芸を持って 東京のインテリから愛され呼ばれて、必ず応えて期待を裏切らない。
そこには知識欲凄まじい外国語ラジオの独特な芸風や、どんな場をも和らげる強い直感力、力を抜いて見られる執着心のなさ、知的な魅力と才能は友人知人に愛され喜ばれた。友好を結ぶことで4のナンバーが持つマチュアな魅力、終始一貫の安定が得られている。いい出会い、友達が存在しての彼の長い成功がある。
彼は決して孤独ではない。
⑶ ソウル数 〜魂の欲求、深いレベルの自覚しにくい欲求、一番大切な価値観〜
【8】 情熱、積極性、現実的、支配力、野心、大胆、パワフルな仕事人間
生まれてすぐ祖父母に育てられた彼の出生は時代背景もあり少し複雑である。そこからソウルナンバー8を読んで見たいと思う。
太平洋戦争終戦のわずか1週間後の8月22日に生まれる。『戦争の前後1週間に生まれた友達はいないんですよ、だから僕は戦後に一番近いっていう…』
(ほぼ日タモリ先生の午後2006より)
太平洋戦争の少し前までは祖父母と父母家族は満州にいたことをよく聞かされている。
祖父母は子供ができなかったために二人の血を引く者を養子にと考える。
祖母は12人兄弟の長女だったので、親子ほど年の離れた一番下の弟を養子にとった。それが実父である。
祖父には嫁いだ妹がいたが早くに死別を経験しており、再婚させてやろうと妹の娘、祖父にとって姪を養子にとった。それが実母である。
この養子たちを通学させるなどして恩を売るようにして育て、やがて結婚させた。(と1988年出演の徹子の部屋で彼が語っている)
養子だった父母は婚姻しタモリとタモリの姉を産むが、幼少時にまもなく離婚。姉と共に祖父母に引き取られて育てられる。
父はほとんど疎遠でタモリが大学生の頃に死去。母はその後2度再婚をして、2度とも男女二人づつ出産し、タモリ兄弟と合わせて6人産んでいる。
彼は早稲田大学在学の頃のことや、出生のことなど実はあまり多く語っていない。それはちょうど入学時に起きていた早稲田闘争や敗戦終戦色濃い時の出生にコンプレックスがあったというよりも、時代や環境をそのまま受容し、あえて口にしない美学、8のもつ現実的な思考を表してると言えるだろう。
義理の祖父母であり養祖父母だった彼らから聞かされていた満州国の話はとにかくいい思い出ばかり。逆に日本が窮屈でセコくて食事はまずいと聞かされていた。
名付け親である満鉄駅長だった祖父がつけた名前も満州軍参謀を務め、のちに陸軍大臣や首相を歴任した「田中義一」にあやかったものであった。
そのまま義一の名をつければ頭でっかちな子になると姓名判断されて、逆さまにつけたのは正解だろう。常に揺るがない、どんな仕事も受け入れる受容性と強さを持った。
名前の母音のもつ波動のソウル数8は、利己的で快楽主義、衝動的で辛辣になりがちだが、おおらかな満州で財をなし帰国後もゆるりとした仕事であくせくせず暮らすそんな祖父母に育てられ精神面を大きく形成されたであろうタモリ青年。俺が俺がと前に出て、周囲を見下すことやワンマンに走ることは決してなかった。
自ら目立とうとはせず、人から見込まれる適性(司会や審査、一発芸)や頼まれる役割や仕事(ヘッドハンティングや誘致)を断らず、ただ流れてきたものを情熱もって取り組み
努力を見せずに学校や社会で地道に磨いて開花させていった。
反省にとらわれず執着をしない心持ちは、精神的に余裕のある勝者だと言えよう。彼がさりげなく博学で知的、だけど妙なこだわりがないのはバランスの良い自信が彼を支えている
からなのかもしれない。
人格数 〜いつの間にか身につけた社会的印象、他人から映る人物像〜
【5】 変化、自由、生まれつきの勝負士、マルチな才能、予測不可能な魅力、芸能
幼少期からの坂道、人間観察に加え、風景に馴染んでいた港の船への興味と全船種の把握。
小学生時には喜劇の台本も担当。(のちに脚本家となった同級生にこの時のセンスを評価されているが、実際は全く受けなかった)
のちに料理上手としても知られる彼は、小学生の頃より祖母から「将来奥さんを困らせてはいけない」との理由で 台所に立って支度姿を見せられ学んでいた。
野球少年で剣道もしていた中学時は、教会の宣教師の身振り手振りが面白くて観察に通っていた。(のちにこの神父を題材にモノマネをする)
高校時は剣道部、吹奏楽部と掛け持ちしトランペットと司会担当。アマチュア無線クラブにも傾倒し、居合道場にも通っていた。
高卒後は一年間浪人生活、暇さえあれば押入れに閉じこもり中国や韓国のラジオに聴き入り真似をしたり
(これがのちに6ヶ国語マジシャンと呼ばれる、インチキ外国語芸へと繋がる)座禅を組み続けて瞑想し続けていたこともあったという。
(遊び回らないあたりは4の安定さと8の秩序性をコアナンバーにダブルで持ち合わせるからか)
大学在学時にモダンジャズ研究会に在籍。トランペットの腕よりマネージャー兼司会が向いてるとされ、学生バンドの司会時代は大橋巨泉に才能を認められたりもした。
もともと多才で器用、好奇心旺盛な彼は、幼い頃より自分の知的好奇心の欲求をコツコツと継続して満たしていく。
自己を満たす才能にとどまらず、グループや団体で必ず司会に抜擢されてしまうほど、突飛で不思議さを纏いつつも思慮深い姿勢の彼の魅力は
話のまとめ役に欠かせない存在として花開き、誰もが放っておかない、必要とされる存在へと導いていく。
学費を旅費に使い込み大学除籍でもジャズ仲間に支えられ悠々自適に暮らしていたがヤクザな奴になったと福岡に連れ戻され、生保会社に就職を余儀なくされ数年。
サックス奏者ナベサダの福岡コンサートに、大学時代のジャズ仲間がスタッフにいると知ってホテルへ行って乱痴気騒ぎに合流。インチキ朝鮮語とタモリとだけ発して去って行った彼に魅了された ジャズ演奏者の山下トリオらは、東京に戻ってからもジャズ好きの変な芸の男を博多じゅう問い合わせて3年後にタモリを探し当てる。
海外のラジオを自己流にアレンジして周りを笑わせた、その巧みな話術はジャズ奏者が集まる新宿のバーの常連で夜な夜な話題となり、福岡から呼ぼうじゃないかと
カンパに寄るタモリの独演会構想が勝手に結成されるほどだった。彼はリクエストに応え、彼らのカンパで開通したばかりの新幹線に乗って月1の即興芸独演会にやってきた。
大学を辞め、福岡在住中は何度もあらゆる職種に転職をしているが常にヘッドハンティング。つまり、人に買われるだけの鋭い知性と機転が効いた才能を彼は持ち合わせていたし、
環境の変化には全くひるむことなく、そつなく飄々とこなしてくのだった。
そして、彼に魅了された人は皆、有力者や知識人やジャズ奏者、漫画家、作家など、知性的な新しい刺激を求めている人間たちであった。世の中が新しいお笑いの文化や
テレビ文化を求めていた70年代、彼は気づいたら求められるままに応え、必ず期待に応えるオモシロイシロウトとして世に出ていくのである。
実現可能数 〜この人生での可能性や実現すべきもの〜
【8】 情熱、積極性、現実的、支配力、信頼、実行力、ど根性、パワフルな仕事人間
彼の魅力の大きな点は初対面の人に緊張を与えず打ち解けられることと、話を多方向から無理なく引き出させるコミュニケーション能力にあるだろう。
彼は多角的な放射パワーを表すナンバー8を持つ故に、アマチュアな面の特徴にありがちな辛辣さや、勝負で決着をつけることはしなかった。
対人関係において「勝つこと」や「正しい結論を求めること」に支配されない人であった。8は水星を表し、水星はコミュニケートを司る。
彼の控えめで思慮深い受け答えは、高圧的な力強さとは無縁であり、場の空気や話の輪をとりもつ独特の直感「力」がある端的な言葉使いだった。
30年以上も続く長寿番組をいくつも持っているという偉業を淡々と達成したのは、根っからの健康オタク加減とバイタリティとど根性がなければ続かないのである。
どれも3ヶ月と持たないだろうと思っていた本人とは裏腹に、瞬く間に人気を博し、高視聴率番組としての地位をどれも打ち立てて冠番組を確立していった。
それは戦略に長けたテレビマンたちや目の肥えたアーティストたちに手腕を買われ、番組を持たされた時代のタイミングも大きかっただろう。
新宿のバーで繰り広げられていた夜のアングラ的な芸風の顔だった彼に、夕刻のラジオで主婦層にもウケ狙う放送がされたりお笑いの審査員をさせたり
と、独特のグロい芸風だけではない、知的な間合いのセンスという新しい魅力でお茶の間の人気者として打ち出してもらったことが大きい。
また、それをこなすだけの知的な興味と好奇心の溜まった引き出しが、彼にはたくさんあった。
全ては、パワーコントロールが上手で、自分を人に預けて楽しめる部分と、反省しなくて済むだけの準備をさりげなくしていたことだ。
毎日冠番組をもち、真面目に長く拘束され続けてきた彼は、今まで以上に肩の力を抜き、より自由に行動できることで
若い人からも「ああいうタモさんみたいな老人ていいよな」とその雑学や趣味、視点に注目を集めるようになり、好きな分野だけで気負わずに富や名声を得ていくことだろう。
押入れで座禅組んで瞑想を続けていた60年代浪人時と変わらず、全ての金、もの、仕事は目的ではなく精神性向上のための手段であると捉えられる人なのだ。
人気が急上昇し始めた81年には自分を「国民のオモチャ」と称し、飽きられたら容赦無く捨てられることも達観して、余計な期待はしていなかった。
安定した人気となってきた90年以降になると、自分の番組なのにコーナーから退いたり、他のメンバーに司会をさせたりと隠居的な役割に変わっていった。
彼は笑っていいとも!に代表されるように、一貫して番組というグループを牽引する強い司会者ではなく、バランスをみて時折ちょっかいを出す程度で笑いをとる、
肩肘張ってやりすぎる芸人の反対側にいるような人であり、憧れるおじいちゃんになった。それは、皆がなかなか持ち得ない達観したゆるさ。
まさに、ナンバー8のミッションである「周囲との力の調整役」にはまり役であった。
Type Ⅰ 感覚パターン 直感、感じ方、知覚、論理的思考、全ての感覚をうまく使えること、これら全て高く特質的。
直感と知覚は目に見えて高い。モノマネ芸で呼ばれて芸能界入りになるのはこの感覚が明らかに優れてたからだろう。
Type Ⅱ 輝くために与えられた特質は Intelligence インテリジェンス(知性 知的才能 それをどう役立てるのか?)
ただのお笑い芸人、1タレントではない存在感は 彼の突出した知性が醸し出している。教授や文化人のモノマネなどは彼の知性ある視点ならではのものだ。
Type Ⅲ Balance −6
後天的に たくさんの資質を 経験によって得る性質をもつ。
時代を彩る、多くの人々との出会いと交流が 彼の魅力と人生を引き上げた
【1】集中的学習癖、インスピレーション、閃きや直感、抽象的領域、視覚的 を生かし意識する
彼の幼少期からの坂道愛、船舶興味、意味不明な文言や動きから神父、ラジオや無線への興味観察。
それらは大人になって彼の目や哲学を体現を通して具体化していく。決して論理や理屈ではない、抽象的なものだ。
興味観察から体現のモノマネが生まれ、坂道の本や独特の視点からゆるい散歩番組が生まれ、
ヨット大会開催や、独自の視点での音楽番組担当に至るなど 理屈ではなく本人が興味を感じたまま楽しんだことがそのまま形成され
大人になって財産になっている。
「それでいいのだ」 究極の居候 タモリの人生を サイクル毎に紐解く
CYCLE 0歳〜32歳
(直面するテーマ)Cycle numbers #8 (成長に必要な学び)Pinnacle numbers #30ー3 (試練挑戦すべきテーマ)Challenge numbers #4
多趣味多才、社交的で人を癒し惹きつけて離さない表現能力(30−3)が開花した。その才能と魅力に喜んだ知人たちに押し上げられる形で
30歳で芸能界デビューする経緯は、非常に興味深い。この時の彼に与えられていた試練は、秩序法則をもたらし本質を明らかにすること。
そのために自己の内面や周りをよく観察し、安定させることがテーマだった。
遅咲きの芸能人、タモリの若年期を見ていこう。
1945年8月22日 福岡県福岡市(現 南区)に生まれる 時は敗戦の太平洋戦争終了1週間後
【#22−4】
タモリは日本の戦後そのものだった、と書かれるタイトル本が存在するが、まさに戦後の文化流行と足並み揃えて時代を生きていくこととなる。
日本が激動の変化と再誕生、革新をスタートさせるユニバーサルイヤー#19-10-1の中で生まれた
強い感受性やインスピレーションと達観した考えの変わった性格(22)だったタモリ。再生と成長を目指す日本はやがてそんな彼を求め歓迎し、放っておかなくなるのだ
1950年 4歳 幼稚園入園を嫌がり断る。タモリ曰く「精神年齢の一番高かった時期(5歳)」の直前である
【#26−8】
正確な時期は不明だが、幼くして間も無く両親が離婚。この頃には祖父母に養父母として育てられるが、彼の生い立ちは非常に複雑である。
タモリは子供のいなかった祖父母が、自分たちの血を引くものを 養子にとって結婚させた夫婦の子どもであった。
タモリの父は 祖母の年齢離れた末の弟。タモリの母は 祖父の妹の娘、つまり姪である。
子供のいなかった義理の祖父母に 姉と共に引き取られ不自由なく愛情かけて育てられたことは
のちに感謝などは多く語ってはいないが、数秘が物語っている。結婚するまで2の2桁のサイクルが続く。彼は複雑な親族関係の中で、受容と平和を保ちながら暮らしていた。
しかし、できないものはできないとはっきり言う、と語るタモリ。お遊戯練習する園児の集団を見て自分には絶対無理と入園を拒否して、日中一人で過ごす羽目に。
サイクル26は変化を受け入れ調和すること。内面の強さを養う時でもあった。
就学まで、生家のあった長い長い坂道にずっと人観察で立ち尽くすというど根性8の彼は近所で有名だったらしい。雨天時も風の日ものその実行力と情熱は彼のソウル数とリンクする。
1954年 9歳 下校途中、電柱ワイヤーに頭をぶつけ、ワイヤー結び目が突き刺さって右目失明。
【#22−4】
衝撃的なダメージ(22)を受けたが、彼自身がこのことを恨むことはなかった。そして、喜劇へのインスピレーションに繋がった。
このことが後に芸能界入りする際、彼を印象付けるトレードマークにもなった。相変わらず暇な時は坂道に佇み人を観察、船舶を眺める生活だった。
料理ができなくては将来奥さん泣かせになると、一緒に台所に立って見てるように言われていた。
その祖母の手つきの記憶だけで料理が最初から難なくできたというから 彼の観察眼は4の几帳面さを表し、いかにプロセスを大切にしてるかがよくわかる。
1958年 13歳 中学時代。のちの芸に繋がる 興味の対象と行動
【#26ー8】
神父の身振り手振りが興味関心の対象だったため、近所のバブテスト教会に通って真似したり、種類を全把握するほど船の観察をしたりという生活。
複雑な家庭環境と思春期が、彼に与えていたサイクル26のテーマは、喜び活動すること。比較的余裕のある祖父母に守られ育てられながらも
どこかこの時期は孤独で傷つきやすく過ごしていたように感じてしまうのは、一人遊びのエピソードが多いからだろうか。
1964年 19歳 浪人時代。
【#23−5】
高校時代に剣道と吹奏楽部両立し、居合道場、無線クラブと多趣味、活動的に過ごした彼はこの浪人期に、ロマンのある新しい遊びに没頭する。
押入れに閉じこもり外と繋がっていたタモリ青年。ラジオで外国の放送や言葉の音を楽しみ聞き入っていた。海外に縁があるサイクル23ー5の影響があるだろう。
かと思えば 大学の選択に悩み、ひたすら座禅を組み瞑想を続けていた。自身の神経系統のアンバランスを、深い洞察力で自覚していたのだろう。
1967年 22歳 大学抹籍処分。
【#26−8】
1965年、無線への興味で電気通信大進学に進むか悩んだ末に 早稲田大学第二文学部 西洋哲学科へ入学した彼。モノ(物質的)から内面的な学びに転換。
すぐに時代の流行りだったモダンジャズの研究会に在籍した。バンドマンは逆さ言葉を使うためこの時に、森田をタモリと呼ぶようになる。
お前のラッパは笑っていると言われ、高校時より担当したトランペットを3日でクビに。
しかし、軽妙な語り口や態度を買われ、マネージャー兼司会を任命される。その実績は 学生バンドの大学対抗ラジオ番組で、当時大物司会だった大橋巨泉を唸らせるほどだった。
2年時に学費資金を友人との海外旅費に当てたことから授業料滞納が続き、3年時に大学から抹籍扱いとなる。
当時大いに流行っていたジャズ。研究会での活躍は目覚しく、大学を抹籍処分となっても団体に在籍し続け、その報酬で潤っていた。
大学生でなくなっても26の調和融合とセンスの良さを生かし、しっかり豊かさを得ていた彼は父の死も帰らなかった。
そのため大学をやめてなお羽振り良い様子のタモリをよく思わなかった祖父は、福岡へ帰ってくるよう呼び戻すのであった。
受容から、穏やかさと妥協、家族。家族の問題から内面の強さを味わうことがテーマになる26サイクルに、彼は帰郷し、生保の営業に就職し身内を安心させた。
1971年3月 25歳 生保の職場で2歳年上の同僚だった 春子夫人と結婚
【#2】
帰郷して3年勤務で結婚する。婚姻に向く26−8に出会い、折しも二桁サイクルから初めて脱した年サイクル2に婚姻となった。
二人には子供はいないが、心配される共依存の2のような暮らしぶりはなかった。マスコミに登場することもほとんどなく、結婚後数年で
彼が東京へ活動するようになっても送り出しており、互いをバランスよく尊重する2の知的交際のゴールインだったと思われる。
1975年 30歳 前にたまたま乱入した時のおふざけがきっかけで、東京へ呼ばれる。 恩人、赤塚不二夫との出会い。
【#7】
才能の解放開花のイヤーサークル。 バリアの解除、素直さ。
彼は著名人から呼ばれて、奇妙な上京を果たすことになった。そしてTVに素人芸人として登場する羽目になる。
ことのきっかけは、福岡に渡辺貞夫率いるジャスコンサートが来た時、早稲田ジャズ時代の知り合いを訪ねてメンバーのいるホテルへ。
乱痴気騒ぎに参加し、得意のインチキ外国語を披露して悪ノリし、モリタとだけ名乗って立ち去ったことだった。
山下トリオと呼ばれるジャズミュージシャンたちは彼を忘れられず、福岡で変人の噂の彼をなんとか探しあてた。
夜な夜な集まる新宿のスナックでタモリに一目会ってみたい著名人、山下らメンバーがカンパを募り、彼を福岡から呼び寄せた。
タモリはそこで4ヶ国語麻雀など、リクエストを含む数々の即興を独演し、大変受け入れられ、定期的に招致され会が催された。
評判を聞いてその会にやって来た、当時、お笑いでテレビ出演するほど人気の漫画家、赤塚不二夫は、タモリに心酔した。
この夏8月末に決まっていた自身の特別生番組に出演させることを密かに決意、福岡には帰したくないと企む。
非常に高級な住まいだった自分のマンションやベンツ、大金の小遣いを与え、東京にずっといるように懇願する。
タモリ曰く「卑屈にならないことをモットーにしていた」ので、なんとそのまま居候を決め、東京生活をスタートする。
そして同時にこのスナックの常連、山下洋輔や高信太郎、筒井康隆ら密室芸をみた様々な著名人たちも、こぞって彼をテレビやレコード会社に売り込んだ。
独創性のある芸のオタク加減と知性が花開き、見出されて飛躍した7の年。みた人の心を掴み、豊かにするというミッション通りの年となった。
なんと、赤塚のその特番をたまたまみた黒柳徹子も初めて目にするタモリに衝撃を受け、放送直後に問い合わせ、徹子の部屋の前身番組に素人芸コーナーとして出演させている。
1976年4月 タモリを自身の番組に生出演させる目的を無事果たした赤塚は、次は芸能界デビューと目論み、レギュラー番組にて正式な芸能界デビューを果たす。
レギュラー出演までの9ヶ月間のタモリは、妻も東京へ呼び寄せ赤塚宅に身を置いていた、堂々たる居候生活なのであった。家も服も車も素直に使い放題で遠慮なく。
赤塚はこの間、狭く汚い作業場と現場、飲み屋をタクシー移動で生活をしていたというから面白い。
2008年に赤塚の葬式の際、タモリは弔辞で初めて、その頃の感謝と礼を述べている。「
赤塚の「それでいいのだ」が聞こえてきそうだ。
1976年 31歳 10月 深夜ラジオ タモリのオールナイトニッポンがスタートする(1983年9月末まで続いた)
【#8】大胆に。放射するエネルギー。
イグアナ、デタラメ言語、反知性大学教授、など極めて酒場の勢いのような密室芸、キワモノパフォーマンスは深夜に大受けだった。
彼を福岡から呼んだ舞台となったスナックが主体で 彼を売り込もうとノリでマネジメント事務所が作られたが トラブルで解散。
当時のNHK芸能番組ディレクターや人気芸人小松政夫や由利徹、団しん也、所ジョージ他錚々たるメンツが週に集まり芸を披露する「面白グループ」まで結成したというが続かなかった。著名人、文化人、芸能人との交流は山下や赤塚と集まる行きつけの店々で繰り広げられた。
自然発生的に成り行きで、様々な会やグループが結成され繋がってゆく。赤塚の口利きで、原宿のクリエイターたちの編集室に寝泊まりすることもあった頃。
やがて彼は交流のあった仲間たちから顔が貧相だとサングラスをつけられ、髪をポマードでテカテカにオールバックの真ん中分けにされ、笑いよりも音楽性の高い田辺エージェンシーの事務所と縁をもつ。様々なジャンルの気鋭との交流、気分やセンスで繋がり横断していく人脈。
大きく拡大していく人脈パワーの中で、秩序や制限がかかることもあったが、常に彼の周りの人間たちの誘導や遊びの中で世に出ていく大きな力が働いていた。
1977年 32歳
【#9】完結 愛と理解力を持って人類愛を実践すること
カラオケが世にレンタルハードとして参入し、社交場や酒場に溢れたこの年、彼の初舞台であり様々な人間模様の場であった新宿ゴールデン街のスナック
「ジャックの豆の木」が閉店となる。のちにタモリは「カラオケが、大人の社交界であるスナックやバーを全部ズタズタにした」と語っている。
この頃のタモリは、ラジオでのハナモゲラ語の流行もあり一躍、時の人だった。ジャック〜の閉店記念に、タモリを含む総勢100名もの常連客がママと共に
バス2台に分乗し水上温泉へ旅行に出かけた。タモリは得意の話芸でバスガイドをかって務めあげた。そのフレーズの数々は仲間内で語り草になっているという。
この閉店と前後して、田辺エージェンシーに所属したタモリは、急激な勢いで多忙になっていくのである。
CYCLE 33歳〜41歳
サイクル番号#22ー4 ピナクル番号#14ー5 チャレンジ番号#3
山下洋輔や赤塚不二夫などのサブカルチャー界隈の人脈を背景に観察芸を見せていて、気づいたらたくさんの社交の中で芸能界にいたタモリ。
当時はせんだみつおの影響で、世に出てきた小堺一機、関根勤など素人コメディアンが多く排出されていた。
ここから直面するのは受容と協力の姿勢で、準備し前進することで 地位安定を得る時であること。
そして人間的成長を示すpinnacleは「体験させられる」ナンバー14−5。
時代に身を委ね、より多くを体験し開花を楽しむ3「楽観性」を訓練するサイクルに入った。
1980年 35歳
【#3】火星、火花の勢いのごとく大胆に変化に飛んでいく冒険と刺激の5クール目のサイクルに入った35歳(〜44歳)
わずか5年のキャリアで赤塚の横でお笑いスター誕生の審査員となる。またその頃は女性から圧倒的に生理的嫌悪とされていた彼だが、
ニッポン放送では夕方の主婦層ターゲットにしタモリと主婦の電話の生放送がスタート。毎回電話は殺到、際どい内容が繰り広げられた話題をエスカレートさせずに見事にさばいていく手腕と 見事なアドリブで惹きつけていく様をフジテレビのプロデユーサーが目をつけていた。
タモリは対する相手にヒーリング(3)して自身も楽しむことを 無意識に学んでいたのかもしれない。
漫才ブームが到来していたこの時期、タモリは漫才やお笑いのエキスパートではないため、飽きられれば捨てられる「国民のオモチャ」と自称。
いたって冷静に、おごった態度を取ることなく、人気の動向を受け止めていた。
1981年 36歳
【#4】着々と、基盤作りの4。事務所や制作サイドが、タモリの安定への布石を打っていた。まさにタモリ戦略年。
それまで深夜番組トークやキワモノ芸人としての活動が目立ってはいたがこの年の秋の新聞一面広告に「一年前女性たちが一番嫌い、に挙げた人。なのに、ことしは いちばん好きな人、です。」と出て話題に。(大手通販 千趣会広告)
この年は、他にも国鉄、朝日新聞、民放連など、密室芸色濃い時期には起用されなかったはずの、お堅い団体の広告にも出演をして注目を浴びた。
NHK、各種民放にてタモリメインの番組が相次いでスタートしていた。彼の放つ毒や遊び心とアドリブの安心感に制作側は大いに期待。
徐々に深夜から夕方までの時間帯に降りてきていた。この年、いいとも!の前の企画「笑ってる場合ですよ」で受けていた漫才の面々は「オレたちひょうきん族」のスタートで笑いのアドリブや楽屋ネタを披露。
たけし、さんまらの勝機がやってきていた。そしてそれまで不動の人気だったドリフの「8時だヨ!全員集合」は85年に終了する。台本による作り込んだ笑いの時代の終焉を迎えることになるのである。
1982年 37歳
【#5】新しい風、環境の変動。79年からラジオ、テレビ、ドラマ、映画、CM、レコードなど仕事は多岐にわたり量もピークに。
80年春にオープンした、世界で初めて大型街頭ビジョンがついたスタジオアルタでは、3番組目の公開生放送番組として いいとも!がスタートする。
タモリの フリートークイベントやラジオ相談などを見ていて起用したのは当時の横澤プロデューサー。その反面、昼間の生放送の顔、として活躍すると、タモリの芸風の
毒気が鈍るのではと心配し 事務所の社長がタモリの趣味性を強く打ち出したタモリ倶楽部を企画。いいとも!の4ヶ月後に深夜帯でスタートさせた。
1983年 38歳
【#6】調和の取れた、温和、誠実さ。 NHK第34回紅白歌合戦の総合司会に抜擢。NHK局アナ以外の人間が総合司会を務めるのはこれが初めてのことであった。
79年NHK総合バラエティにも単発から出演しやがてレギュラー出演(〜82年)していたことや、80年放送の真面目なドキュメンタリー番組でもかなり思い切った
演出で起用され、幅広い層に周知されていったタモリ。いつでも真っ黒なサングラスの男のアップは、はじめこそクレームも相当だったが、視聴者はやがて慣れていった。
彼の持つ、どことなく憎めないサングラス越しのニヤリとした笑顔が、画面を通して、人懐っこさや平和さを伝えていたのかもしれない。
vol.2 に続く




