<共に乗る>ということ |      生きる稽古 死ぬ稽古

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ー毎日が おけいこ日和ー
        

2年前のお正月に

↓こんな記事を書きました。

 

映画を見まくるお正月だったのでね

その時に観た映画について書いています。

 


 

「ある終焉」という映画には、

忘れられないシーンがあります。

 

死期が迫ったおじいさんが、

そのだんだんと死に近づいて行く、

というその静かだけれど確実な恐怖に

耐えられなくなって

介護をしている男性にしがみつく

というシーンです。

 

この<言葉にできないやるせなさ>こそが

死に対する最大の恐怖なのではないかと思うのです。

 

 

最近、友人が↑このような記事をアップしていました。

 

怖い、ツラい、痛いを

完全に共有することなどできません。

 

<時の流れに共に乗る>

これこそが看取るということなのだなぁ

と、それをあらためて思いました。

 

そしてそして…

ここに書かれた言葉をきいて

私がもうひとつ、感じたことがあります。

 

「時に流れに共に乗る」ことで

両者のまなざしに「弱さと柔らかさが行き交う」

 

これは介護のみならず

私たちが日頃おけいこをしている

太極拳においても

まさにそういうことが

起こっているのではないかと思ったのです。

 

一人で太極拳を舞うことと

何人かで共に舞うこととは

似ているようで違うことです。

 

<共に乗る>ことで

<弱さと柔らかさが行き交う>のです。

 

そうなのか、そういうことなのか。

しばらくこの

<共に乗る>

ということを考える日々が続きそうで