結論とか落としどころとか
うまくいくとは思えないけど
ちょっと、書いてみます。
ヒトのことをジャッジしまくっていると
自分の人生はうまくいかないよ〜
という話をきいて、
なるほどそのとおりだなぁ
と思いました。
悪いことをしちゃった
というヒトのことを批判するのは
正義を振りかざすようなものだ
という話をきいて、
これもまたそのとおりだなぁ
と思いました。
事件やら、犯罪の報道がなされる時
それに反応するのは
自分自身の投影だったり
自分が満たされなかったことの反動だったり
もっと言えば、たとえそれが無意識ではあっても
八つ当たりの場合が多い
という話をきいて
う〜ん、そうだよね
それは気をつけないとね
と思いました。
こういうことはすべて
おっしゃるとおりだと
思うんです。
私自身にも
心当たりはたしかにあるんです。
でも![]()
と、私は思ってしまう。
原子力発電所の事故が起こった時
「安全です」と言っていたことに対して絶望し、憤った気持ち
私の中に今もあるその気持ちはどうなのだろう?
フットボールの事件の時に
シラを切り続けた監督に対しての怒りの気持ち
そして選手の無念さを感じたのは
どうなのだろう?
虐待死の児童のアンケートが父親の手に渡ったときいた時
絶望と悲しみとで<ひどい!>と投稿した私は
どうなのだろう?
ジャッジをした私はよくないことなのかな?
正義をかざしてしまったのかな?
自分の問題を投影してしまったのかな?
深堀りしていけば
なにか自分の問題にたどりつくのだろう、おそらく。
それでも
つらかったでしょう
かなしかったでしょう
それはひどいよね
あんまりだよね
こんな理不尽なことがまかり通るなんて!
なんとかしてあげられなかったのかな
なんとかしてあげられたヒトはいなかったのかな?
これから、変わるためにはどうしたらいいのかな?
などなどなどなど
他人の身に起こったことに
思いをよせられるヒトを
少なくとも私は信用できるヒトだと思うし
自分自身がそうであることを
否定したくもない。
正義をかざしてない!
自己投影してない!
八つ当たりなんかじゃない!
と言いきれる自信はない。
発露はそういうところにあるのかもしれない。
だけれども
心に湧いたこういう感情は大切にしたいと思っている。
虐待したオヤを極刑に!とか
同じ目に遭わせてやりたい!とか
まぁ気持ちはわからないでもないけど
でも、そこじゃないんです。
そうじゃなくて
いき場所もなく葬られた命を悼む気持ち
もうちょっと、やり方があったんじゃない?という残念さ
危機管理はどうしたらよかったんだろう?というさまざまな想い
何よりも、絶望感、孤独感、悲しみや痛み…
それを自分なりに想像してしまってツラくなってしまいます。
正義をかざす
と言われれば、まさにその通り!
だけどさ、
立場の弱いもんがヒドイ目に遭う
なんて、がまんができないよ。
それって違うだろ!
って思わず声をあげたくなるよ。
そういえば、最近読んだこの記事
この記事の中で、
例えば、現代社会の人類にとって「障害」としかみなされない形質も、
将来は「有効な形質」になってるかもしれません。
だから、可能であるならばできる限り多くのパターンの
「障害(=つまるところ形質的イレギュラーですが)」
を抱えておく方が、生存戦略上の「保険」となるんです。
というくだりに、とても納得したんです。
生き物としての戦略
と考えたら、いろんなことが腑に落ちてくる。
障害者とか弱者とか言われているヒトたち
もっと飛躍してとらえると
欠点や弱点だと思っているところ
そういうヒトや、そういうところが
将来は「有効な形質」になってるかもしれないんだったら
立場の弱いもんがヒドイ目に遭うのががまんできない
というのは
将来は「有効な形質」になってるかもしれないナニカ
に対する期待から来ている気持ちなのかもしれないよね。
<悪いことをしたヒト>はよってたかって叩きやすい
とか
ことが起こるたびに正義を振りかざすヒトたちがいる
とか
他人をジャッジする世界から生まれるものは乏しい
とか
そういう意見には真摯に耳を傾けたい。
で、その上で自分の中から湧き出てくる気持ちにも
蓋をせずに生きていきたい。
世の中で起こるさまざまな事件を見聞きする中で
そういうことを思います。
