ひめゆり平和祈念資料館 その3 |      生きる稽古 死ぬ稽古

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ー毎日が おけいこ日和ー
        

ひめゆり平和祈念資料館に入るとすぐに、

ボードに書かれた短い文章が目にとまります。

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「ひめゆりでは

3月の動員から

解散命令を受けるまでの

90日間の犠牲者19名2対し

解散命令後のわずか数日で

100余名が亡くなりました」

と、書かれています。

昭和20年の3月には、

沖縄では凄まじい米軍の攻撃を受けています。

責任者である上官たちが戦死して

統率がとれなくなった軍部は、

6月18日に突然の解散命令を出します。

これは、

自由になったぁ、

看病せずに逃げられる!

などという生やさしいものではなくて、

所属部署をクビになって、

突然出て行けといわれたようなものなのです。

しかも出て行けと言われた外は、

敵の弾丸が降り注ぐ岩肌です。

女子高生たちは、傷病兵に肩を貸しながら

そんな中を逃げまどいます。

沖縄の岩場で

シュノーケリングをしたことのある人なら

わかると思いますが、

ブーツを履かずにあの岩場に足を置いたら

痛くてとても立っていられません。

そんな岩場を、

彼女たちは裸足で逃げていたのだそうです。

「デテコ〜イ、デテコ〜イ」

という米軍からの声が、

すぐ背後から聞こえてきた、と言います。

当時、敵の捕虜になるということは、

何よりの恥だという教育がなされてきたのです。

「最後まで戦え、捕虜にはなるな」

という言葉を残して死んだ上官のせいで、

捕虜として生き残るという選択肢を

閉ざされて死んだ人がたくさんいたのです。

そんな中で捕虜になってしまった女子高生は、

「自分の身内が捕まって、

ひどい拷問を受けているのではないか?と

ずっとずっと心配し続けておりました」

と語っています。

目の前に海、

背後から米軍、

手には渡された手榴弾。

彼女たちは、

なぜこんなにも

「死ね」と言われなければならなかったのでしょう?

「死ね」と言ったのは誰だったのでしょう?

敵はいったい、どこにいたのでしょうか?

この状況が、

「ひめゆりでは

3月の動員から

解散命令を受けるまでの

90日間の犠牲者19名2対し

解散命令後のわずか数日で

100余名が亡くなりました」

という言葉に込められているのです。