骨になる |      生きる稽古 死ぬ稽古

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ー毎日が おけいこ日和ー
        

猫が亡くなって、

最大のダダをこねたのは、

「骨にする」

ということでした。

今までに、父や母だけでなく、

ジイチャンやバアチャン、

オジサンやオバサンたち、

たくさんの大切なヒトとお別れをしてきました。

でも、こんなにイヤだと思ったことはなかった。

荼毘に付す

このことは、いわばあたり前のことだった。

なのに、猫はイヤだった。

「剥製にしたいわけじゃないのよね」

と、私は夫に話していた。

「剥製はイヤなのよ。

そうじゃなくって、腐らないんだったら、

ずっと、このまま、

こうやってそばに置いておきたいわけよ」

彼は、ウンウンときいてくれていた。

ここに命がないのはわかっていた。

ここから魂は旅立っていったことはわかっていた。

ここに残っているのは、ただの器。

それもわかっていた。



三年前のある日のヒトコマが、

突然、フェイズブックから立ち上ってくる。

そうか、ダダをこねているのは身体なのだな。

身体反応として、イヤダイヤダと言っているんだ。

小さきもの、

いつも触れているもの、

<私>と<他者>との境界線があいまいなもの、

抱っこするもの、

腕の中にいるもの。

確かにいたはずのものが、

するりと目の前からいなくなる。

いや、目に見えないものになってしまった。

その戸惑いと、憤りと、

そして喪失感だったのだな。

突然、位相が変わってしまったのだ。

それは肉が骨になることであり、

コッチからアッチへ逝ってしまったことであり、

見えていたものが見えなくなることでもあった。

そのことを悲しみながら、

でも、日常を取り戻しつつある、そんな日々にゃー