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マイメディ・プロデューサー
現役女医の高宮こずえです

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今日は、終戦記念日ですね…
実は、今週、お盆休みを利用して
わたしの両親&祖父が
東京に娘に会いに来てくれています!!
わたしのおじいちゃんは、90歳
終戦を20歳で迎えたことになります
このとき、おじいちゃんは
海軍軍医学校の奨学生で
いまの岡山大学の医学部2年生でした
あのまま太平洋戦争が続いていたら…
おじいちゃんは、1~2年後には
軍医として潜水艦に乗っていたことでしょう
(当時は、軍医が足りず
本来の卒業年度まで待たずに
3年生を修了したくらいのタイミングで
戦場へ送られていたそう)
70年前の今日…
大学の夏休みで
神戸の自宅に帰省していた
おじいちゃんは、
新聞で
「ラジオで天皇陛下から直々にお言葉を賜る」
と知り
自宅で、家族みんなで
(祖父の母、姉ふたり、妹ひとり
弟は京都の日本海側へ学徒疎開中)
ラジオを聞きました
おじいちゃんは、きっと
「一億総玉砕の魂で
国民一丸となり
お国のために戦うように」
というお言葉を賜るのだと
思っていました
ところが、なんと、まさかの
「戦争に負けた」
というお言葉…
まさかのことで、俄かには信じられなかった
てっきり勝つと思っていた
そうです
わたしは、おじいちゃん&おばあちゃん子
だったので、昔から、戦争の時代の
いろいろな話を聞いています
おじいちゃんが、
岡山の大空襲で背中に大やけどを負い
生死の境をさまよったこと
当時、月に60円があれば下宿生活ができたところ
海軍から毎月35円の奨学金をもらっていたこと
やけどで入院中、空襲警報が鳴っても
逃げられないため、付き添いの母と手を握り
「これで死んだら運命」と
言いながら、耐えたこと
最近はじめて聞いて、
「すごい!!!」
と思った話は、こちらです
戦後、引き揚げ船が下関へつき
復員列車が下関から東へ走るようになった
このとき、全国の医学生がネットワークを作り
船内・車内で診察・薬剤をわたすようになった
広島から京都までは、おじいちゃんたち
岡山大学の医学部生が乗車し、京都以東は
京都大学の学生へ交替した
京都に着いた日は、西本願寺などに宿泊し
寝床・食事を提供してもらった
そして翌日、空の列車に乗り岡山まで戻り
4-5日間授業に出席、
また1泊2日かけて復員列車に乗る
というシステムだった
これ…
ネットもない&電話すらも
満足に整備されていない時代に
全国の学生が、なんと
たった1ヶ月でネットワークを
作り上げたんですって!!!!!!
最近、「再現性」を意識する
ビジネス脳になっているわたしは
ここにびっくりですよ!!!!!
ありえなくないですか!??
この頃の学生さんたち
どれだけ根性あったんやろ…
そして、その必要があったということですね…
どんな手段かはわかりませんが
(おそらく手紙と電話で)
全国の医学生が連絡を取り合い
仕事内容と、区間の分担を決め
薬も、大学の薬局にお願いして
自分たちで手配して
食事も、大学の学食でおねがいして
梅干しの三角おにぎりを
作ってもらい
宿泊先もお寺などにお願いして確保し
大学内で、学生同士の分担(シフト)を決め
授業を休んで、引き揚げ船・列車に
同乗していた
同じ医学生だった者として
信っじられない!!!!!!
ほんとうに
ほんとうに
いまの平和な日本
言いたいことを言える日本
わが子を理不尽に出征させられない日本
改めて
当然のことではないのですね…
そして、同時に、痛感しました
戦争の記憶・記録を
知った上で
未来を選択する必要が
あるということ
もちろん憲法9条は素晴らしい
けれど…
勇気を出して書くと
すべてラブ&ピースで
済ませられる世の中ではない
と、わたしは思います
憲法の解釈変更に異を唱えるのもいい
解釈変更を指示するのもいい
すべて、我々がよくよく考えて
決めなくてはならないことです

どうか、どうか
この子たち、次世代につづく世が
よりよいものになりますように
それは、まさに、今
われわれの選択にかかっているのですね

「マイメディ」こと

