おはようございます

夜中から雨が降り出し、朝からドシャドシャな静岡市

駅まで娘を送った後で、そのままコインランドリーに直行
(我が家には乾燥機がないので…)
(我が家には乾燥機がないので…)車内で待つ間にも勉強できますので、有効に時間を使います

さて、今、夢中でやってる科目『中高年の心理臨床』ですが、昨年春に新しく開設された科目です。
興味深くて履修を決めたクセに、途中で疎遠になって、夏の試験を見送りました(^▽^;)
後がないので、今頃になって必死になってますが、ちゃんと学んでみたら今の私にぴったりくることに気づきました

『今、学びなさい』ってことだったんだな~と感じてます。
〝中年の〟心理を学ぶつもりが、実は〝老年期の〟心理の方がぴったりくるという不思議
あれれ~???

あれれ~???わたしなりにいろんな体験をし、47で孫2人いるという身ゆえ、気持ちはもう、〝人生の終盤にきてる〟感覚になっているのかもしれません。
死を考えることは生を考えることであり、生を考えることは死を考えることである。
一人の人間の生死は、大宇宙の悠久の時の流れの中に位置付けられる小さな点である。
~略~
機能喪失の基礎はあくまでも細胞にあるのである。私たちの寿命は、受精の瞬間から時を刻み始める。
産声を上げる10ヶ月も前から、私たちは死に向けて歩み始めるのである。
しかし、その歩みははじめから崩壊に向かっているのではない。
一個の受精卵が六〇兆個の細胞に増え、人間という小さな宇宙を形成する。脳が発達して、喜怒哀楽を感じ、考え、学習する。
自意識と無の概念は死へのおそれを生むが、死への歩みは成熟、完成を経る歩みである。百年に満たない死への歩みの中で、私たちには自分を高める余地が残されている。
死は生の終着点のように思われているが、決してそのようなものではない。死は生を支え、生を生み出す。
受精の際には、たくさんの精子が死に、残された一つの精子によって生命が誕生する。
一つの生のためにおびただしい数の死が要求されている。死は生と同じようにダイナミックである』
生まれた瞬間からすべての人が死に向かって歩み始める。
一つの生の背後に無数の死がある。
一つの死の未来に無数の生がある。
どのような年齢であっても、その事実をしかと意識して、今、生きることが求められる。
高齢者にとって、死は近しい存在であると同時に遠いものである。
~テキスト中より、柳澤桂子さん 『われわれはなぜ死ぬのか』(2005)草思社 の部分を引用~
今、ここに生きていること、こうして生かされてることに改めて感謝せずにはいられない学びになっています。
さあ、家事も食事も全て完了

わたしは今日もあがきます~(*^-^)b
1月最後の雨の金曜日

今日を精一杯、生きましょう~




