いつもの朝を迎えた3月11日。

夫は、いつもの時間に出勤。

私は、いつものように身支度をする。

長女は、無事3月1日に高校を卒業し、4月1日から通うことになる専門学校に胸を膨らませていた。

そして、本来ならあるはずの近所のコンビニのアルバイトが急きょお休みとなり、部屋でまた寝ていた。

夕べ、少しだけ反抗期の娘と喧嘩をし、取り立ての免許で、納車したばかりの車を

日中、勝手に乗り回さないように、玄関にある車のキーをどこかに隠しておこうかと思ったが、

なんとなく置いたまま出勤した。

長男は、その日、中学校の卒業式で、先輩方を見送る日だった。

そして、それぞれ『我が家』の玄関からその日を出発した。

 

『我が家』は、その時築8年が過ぎた頃だった。

まだ真新しく、一年以上念入りに建てた家だった。

コンセプトは、「海が見えるプロバンス風の家」。

外壁がベージュで、レンガを使った洋風の2階建てだった。

レンガの壁に囲まれた白い玄関の扉を開けると、右手に下駄箱があり、

玄関の下のレンガは、夫がこだわった大きめなピンク色の大理石が敷き詰められていた。

靴を脱いで、家にあがると、左手には和室、右手にリビングとダイニングと台所があった。

オール電化だったので、蓄暖で部屋が一日中ほんのりと暖かかった。

リビングにあるテレビボードは、私がデザインして特注で作ってもらったものだった。

とてもお気に入りだった。

台所に立つと目の前には窓があり、朝日を見ながら朝食が作れた。

あの日も朝食を終え、食器は、食器洗浄機の中にしまい、スタートボタンを押した。

冷蔵庫は1ヶ月前に両開きのものに買い換えたばかりのものだった。

あの日は、豚の角煮を作ろうと思っていて、真新しい冷蔵庫にはブロック肉がたくさん入っていた。

テーブルは、ちょっと大きめな木の円卓だった。

一人一人色違いの座椅子に腰掛けて、食卓を囲んだり、テレビをみたり、団欒したりした。

テレビも丁度、冷蔵庫と一緒に買い換えたばかりだった。

奮発して、少し大きめな液晶テレビを買った。

私がデザインしたテレビボードの中に、少し奮発した大きなテレビを眺めるのが好きだった。

リビングから出ると、長い廊下があり、左手には6畳の洋室、右手に階段下収納があった。

階段下収納には、長女のお雛様と長男の五月人形がしまわれていた。

廊下の突き当たったところにも収納があって、夫のゴルフ用品とか掃除機とか入れていた。

廊下の突き当たった右手にはドアがあり、左手には脱衣所があった。

それは、海水浴から帰ってきたら、すぐにお風呂に行けるようにとしたものだった。

脱衣所は、夫のこだわりで、かなり大きな脱衣所だった。

壁紙も、銭湯風ということで、木目調のものだった。

お風呂場も、やはり夫のこだわりで大きめな湯舟と洗い場だった。

階段を上がって二階に行くと、右手にトイレ、突き当たりに私たち夫婦の洋室があり、

左手に歩いていくと息子の部屋があり、洋室があり、突き当たりに娘の部屋があった。

この真ん中にある洋室は、普段はスライド式の壁がしまわれていて、オープンスペースとなっていた。

そこから眺める海は格別だった。

ベランダも広めに作ったので、そこで近所の方とパーティーとかしていた。

玄関を出ると、左手に学校の美術の授業で娘の作った大きな木の椅子がおかれていた。

とっぷりと背もたれできる、その大きな椅子に腰掛けて、昼間は青い海と青い空を眺め、

夜は、ビールを片手に夜空を楽しんだ。

 

我が家の目の前は、海水浴場となっていて、朝はサーファーがたくさんいた。

いや、サーファーは一年中、暑い夏の日も寒い冬の日も年中いたな。

それほどサーファーが好む波があった海水浴場だった。

夏になると、たくさんの海水浴客がきた。

私たちも、近所の人たちと浜辺でバーベキューをして楽しんだ。

 

船の汽笛の音と、かもめの鳴き声と、さざ波の音で、毎朝、目が覚めた。

玄関の扉を開けると、潮の香りがした。

そんな朝を、3月11日も普通に迎えていた。


↑我が家があった通りの風景の一部をネット検索したら出てきました。


 

 

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当時、東日本大震災がくるまえに、すでに震度5位の大きな地震がきていた。

仕事をしていたのだが、すぐに外へ飛び出したのを覚えている。

そして、家族から親戚からと電話やメールがきて、無事を確認した。

なぜなら、我が家は海の目の前にあるからだ。

それを誰もが知っていたから、尚更心配だったのだ。

 

そして、運命の日。

普通に出勤していた私は、そろそろ3時の休憩をしようかと、会社の人と言っていたとき、

下から突きつけるような振動に襲われた。

なに?

頭が真っ白になりながらも、建物の外へ出た。

外へでても、激しい揺れのために立っていられれないほどだった。

電線が切れてバチバチと火花をあげている。

駐車場の車同士がぶつかりあっている。

目の前にある道路が、まるで波のようにうなっている。

まわりの建物から悲鳴が聞こえてくる。

いったい何が起きているのかさえわからないほど呆然と道端に座り込んだ。

そして、頭によぎったのが、バイトが急きょ休みで家にいるであろう娘と、

卒業式だったので、午前中で帰ってきたであろう息子と、

埠頭で働いている夫の身の安全のことだった。

外へ逃げだすときに握り締めた携帯電話で電話をかけた。

まず娘にかけたが繋がらない。

つぎに夫にかけたが、これも繋がらない。

息子は携帯電話をもっていなかったので、家にかけたが繋がらない。

確か息子は、数人で誰くんちで遊ぶからと言っていた。

その数人の友達のお母さんに確認のメールをする。

「うちの息子、遊びにいっていませんか。地震大丈夫でしたか」

誰からも連絡が来ない。

そして、娘にもメールを送った。

「今どこ?地震大丈夫だった?」

手が震えて、うまく文字が打てないながらも、必死で打った。

夫にも、「大丈夫?」とメールをしたが、なんの連絡もこなかった。

胸騒ぎが止まらない。

揺れがおさまると、建物の中に入りテレビをつけた。

7メートルの津波が発生するという内容だった。

 

7メートル?

 

とっさに机の上を整理をし、パソコンの電源を切り、上着を着てバックをもち、

「すみません。家が心配なので帰らせていただきます」と上司に告げ、車に乗り込んだ。

すぐにラジオをつけ、車を走らせた。

家の間の道路を走ると、余震で瓦が紙のように降ってきた。

橋桁が途中でヒビが入り段差になっていたが、迷うことなくアクセルを強く踏み、

スタントマンになったかのように車が宙に浮き、無事、向こう側に渡れた。

信号待ちしていても、すごく揺れる。

道路が渋滞しはじめて、少し止まっただけでも、すごく揺れた。

その渋滞の中で止まっている間、隣の車線にいた知らない女の人と目が合い、

二人で大丈夫!というかのようにお互いに笑いかけおじぎをした。

ラジオの向こうから聞こえる津波の高さがどんどん増していく。

何度も何度も携帯電話をかけるが誰ひとり連絡が取れない。

 

恐怖。

 

当時、そんな感情しかなかった。

 

そして、一通のメールが飛び込んできた。

娘からだ。

「内郷にいる」

なんでそんなとこにいるのかと思うよりも、返事がきたという喜びでいっぱいだった。

「娘は無事だ。しかも海のそばにはいないから安全だ」

これだけでも、力が少し抜けた。

夫に娘の無事をメールし、これから我が家に向かうことをメールし、

息子のことが心配で車を再び、我が家へと走らせた。

あの山を越えたら、もうすぐで家に着く!

そう思ったときに、また一通のメールが飛び込んできた。

車を止めて確認すると、夫からだった。

 

「つなみきてる いくな」

 

夫の必死さが伝わってくる内容だったが、夫も生きていると確認できたメールだった。

が、「いくな」…。

どうしても息子の安否の確認をしたいのに、いくな…。

どうしようとアタフタしていると、当たりが急に真っ暗になり、吹雪になった。

「もう、この世の終わりか…」

その吹雪の中、私は我が家がある方向をみて、為すすべもなく立ち尽くすだけだった。

「息子よ、どうか無事、生きていて…。」

あまりの恐怖で涙すら出なかった。
 


↑当時の様子。堤防を波が乗り越えてきて町並みを飲み込む。




 

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恐怖におののいている場合ではないと我に返り、

どうにかしないといけないと思い、少し戻ったところに夫の弟が板前をしているお店があったので、

助けを求めて、そこへ急いで向かった。

「息子の行方がわからないの。どうしよう」

夫の弟がすぐさま車を出し、我が家の方へ1人で向かった。

「俺、見てくるから、ねーちゃんはここにいて」

とても弟が頼もしく見えた。夫がどこにいるかもわからない今、弟だけが頼りだった。

大きな余震で揺れる車の中で、ひたすら弟を待った。

ラジオから聞こえてくる津波の高さは、もう想像できないくらいの高さになっていた。

不安で押しつぶされそうになっていると、車の窓ガラスをたたく音。

すぐさま振り返ると、なんと、夫だった。

この時ほど、居場所を教えていないのに、夫婦の直感なのだろうか、

奇跡がおきて出会えるんだなと思った。

夫に、娘の安否の確認がとれたのと、まだ息子の安否の確認がとれなくて、

今、弟くんが1人で見にいってくれていることを告げた。

そして、すぐに我が家に向かうのかと思えば、そうではなくて。

「ちょっと待ってろ。ガソリン満タンにしてくるから。」

こんなときにって内心思っていたものの、この判断が後々役に立った。

戻ってきた夫と我が家に向かった。

渋滞にあって、なかなか前に進めない。

すると、見知らぬ番号で携帯電話が鳴った。

恐る恐るでてみると、息子だった。

一緒に遊んでいた友達の携帯電話を借りて、何回も何回も鳴らし続けていたそうで、

やっとのこと繋がったとのことだった。

この時思ったのは、よく親の携帯番号を覚えていたなと関心すら覚えた。

でももし、親の携帯番号など覚えていなかったら、安否の確認も居場所もわからなかったので、

そう思うとゾッとした。

 

「今、どこ?」

 

「○○荘にいる」

 

○○荘とは、高台にある老人ホームだった。

一先ず安心した。生きているし、高台に避難しているのなら大丈夫だ。

私と夫はその場所へ車を走らせた。

でも、渋滞が続いていたので、私は車を降りてその場所まで全力で走った。

顔を見るまでは安心できなかったからだ。

坂道を走ってあがっていると、泣き叫んで歩いてくる中年の女性がいた。

「家が…、家が…、家が…」と泣き叫んでいた。

きっと、津波で家が流されたのだと思ったが、声をかける余裕はなかった。

老人ホームに着くと、たくさんの人が避難していた。

知り合いの顔が見えると、お互い無事を喜んだ。皆、泣いていたが私は、なぜか涙一つも出なかった。

なかなか会えない息子。

「すみません、うちの息子、見ませんでしたか」と、すれ違う人、すれ違う人に血相を変えて声をかけた。

すると、奥から息子の顔が見えた。

この時ほど、体全体の力が抜けたことはなかったような気がする。

思わず抱きしめた。本当に生きているのかを、自分の肌で感じたかったからだ。

 

「よかった…」

 

少し経ってから夫もやってきた。三人で無事を確認した。

そして、高台から下を眺めた。

明らかに我が家のある場所には、波がかかっている。

まだ津波もきている様子だ。

夫は山をつたい、我が家の確認をしてきたいというので、合流した弟くんと私と息子は一足早く、

弟くんのお店に向かった。

お店に着くと、娘に電話を何回もかけた。

すると何回目かで繋がり、今、自分たちがどこにいるかを告げ、娘に来るように指示をした。

幸い娘は、納車したばかりの車に乗っていたらしく移動には困らなかった。

そして1時間ほど経った頃、娘がやってきた。

娘の顔を見ると、はやり体全身の力が抜けた。

やっと会えたという喜びでいっぱいだった。

夫も何時間後に帰ってきた。

「ないな、我が家」とポツリと言った。

薄暗くなってきて、ちゃんと確認はとれなかったものの、我が家はもうないと確信できたと言う。

私はなぜか、家がないということに無関心だった。

家族皆が生きてくれていたことだけで、私は満足だったのだ。

そして、弟くんのお店に泊まらせていただけることになり、

そこで一夜を明かし、早朝に我が家の確認に行こうということになった。

ありがたいことに、お店のオーナーがお店の残りもので食事をさせてくれたり、

布団をもってきてくれたり、携帯電話の充電器をもってきたりしてくれ、

何不自由なく、一夜をすごすことができた。

だが、大きな余震で眠ることなく朝を迎えた。




 


↑当日の朝の様子。瓦礫が散乱していて、歩くこともままらなかった。

 

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家族皆が生きて揃ったことは『奇跡』としか言いようがなかった。

 

○夫の『奇跡』

海岸沿いにある会社に勤めていた夫。当日は、埠頭で重機を操作していた。

強い揺れにさすがに重機から降り、おさまったあと、揺れで散乱した物の後片付けをし、

あまりの揺れのすごさで、我が家が心配になり、

上司に言って早退させてもらい、我が家に向かうために車に乗った。

海沿いの道路は渋滞していて、三台前くらいの車が信号待ちをしていた。

そこへ、津波が流れ込んできて車を襲うとしていた。

夫は、このままこ海沿いを走ったら、津波に完全に飲みこまれると思い、

その三台の車を追い越して、交差点を海から離れるようにスピードを出して走ったそうだ。

その判断は良かったようで、あとあとそこで何台もの車が津波に飲み込まれて横たわっている写真がたくさんあった。

夫の会社も津波に飲み込まれた。

もし、早退しないで片づけなどしていたら、夫も津波に飲み込まれていたかもしれないと思うとゾッとする。

早退してくれたこと、交通ルールには違反するが、3台の車を追い越して海から離れてくれたことで、夫は生きていてくれた。

 

○娘の『奇跡』

本来ならば、我が家の近くにあるコンビニでアルバイトをしている時間帯だった娘。

急きょ、「明日は休んでいいよ」と店長に言われ、家にいることになった。

昨日から私に、「まだ危ないから日中、車を乗り回しちゃだめだからね!」と強く言われていたものの、

私が隠さずにおいた玄関にあった車の鍵を見つけ、友達と海岸沿いをドライブしていたらしい。

そして、激しい揺れにあい、弟が心配で血相変えて我が家に戻ってきたそうだ。

家の中に入ってみたものの、何も倒れた様子もなく、とても綺麗だったと言っていた。

家の中で大声で名前を呼んでも誰もいなそうなので、自分も避難しようとして車に乗った瞬間…。

後ろから津波が追いかけてきたそうだ。

そして、後ろを振り返らずにアクセルを全開にして必死に山沿いに車を走らせたそうで、

途中、地震による道路のヒビがあったところでパンクしたらしいのだが、それも気づかずに必死に逃げ出したらしい。

どこをどう走って逃げたか今でもわからないほど、必死で逃げ出したようで、途中にあった車屋さんで、

無料でパンク修理しもらったらく、後日、お礼に行きたかったのだが、

どこをどう走って逃げたのかわからないので、その車屋さんもわからないままになってしまった。

娘はアルバイトが休みになったことと、私が車の鍵を置いていったことで、娘の命は助かった。

そのアルバイト先のコンビニも津波に飲み込まれた。そこで何人もの方が亡くなっている。

娘がもし働いていたら、津波に飲み込まれていたかもしれない。

私が車の鍵を隠していったら、車で逃げ出すこともできなかったかもしれない。

やはり、そう思うと背筋がゾッとしてならない。

 

○息子の『奇跡』

その日は、中学校の卒業式だったので午前中で学校が終わりだった。

前の日に、男の子5人位で○○くんちで遊ぶと聞いていたので、地震があっても、

○○くんちにいるのなら安心だと思っていたが、実は○○くんちには行かなかったのを私は知らなかった。

地震直後、その○○くんちのお母さんにメールして、すぐには返事はこなかったものの、

我が家に向かう車の中にいたときに返事がきて、「来てないよ」と…。

もうそこで、大パニックになった。

遊びに行っていないのなら、我が家にいる。

私は余計に我が家に向かって車を走らせた。

だが、途中で夫から「つなみきてる いくな」のメールで、私は立ち止まることになった。

あとから本人に聞いたのだが、遊んでいたのは、海からちょっと離れた○○くんちで、

大きな地震があったあと、二人で自転車で、海を見に行ったらしいのだ。(バカか)

その時みた光景は、海水が全くなく、海の底がずーっと先まで広がっている不思議な光景だったそうだ。

二人は顔を見合わせて、「これ、やばいかも」と思い、自転車に乗って逃げようとしたら、

消防団の人に、高台にある老人ホームに逃げろという指示を受け、二人で必死に逃げたそうだ。

息子がとりあえず、我が家ではなく、他の家に遊びに行ってくれたことで津波の被害には遭わなかった。

それに私もあの時、我が家に向かっていたら津波に飲み込まれていたかもしれない。

繋がらないはずの夫とのメールが届いたことで、私の命も助かったのだ。

 

こうして、家族皆が偶然が偶然を呼び、津波という被害から逃れられた。

一つ間違っていたら…、そう思うと、やはり生きていられることは『奇跡』なのだと思った。

 


↑夫の会社の近く。

 


↑娘がバイトしていたコンビニ。

 

 

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弟くんのお店に泊まらせていただいた、まだ暗い朝の5時に、我が家へ家族で向かった。

いったい地元がどんな状態になって、我が家がどんな風になっているのか、

早く自分たちの目で確かめたかったのだ。

前の日に、夫が「ないな、家…」と、ぼそっと言ったのが頭から離れない。

なぜなら、夫の夢だったからだ。自分の家を持つという夢。

だから、一年以上も構想を練って、大工さんに丁寧に作ってもらって、

そして、家族8年分の思い出が詰まった我が家だったから、尚更、何かこみ上げてくるものがあったのだと思う。

だから、今も「家を建てたい」とは口にしない。

地元へいく途中で、通行止めにあい、車を降りて歩いた。

坂道をくだって、地元が見える手前のカーブの道を曲がった途端、まったく別の世界が目に飛び込んできた。

 

道がない…。

 

家がない…。

 

何これ…。

 

道がないので、津波によって流された屋根の上を這いつくばって前に進んだ。

もはや歩いているとは言えないほどの状態。

「助けて」「ここに人がいる」

そんな言葉があちこちから聞こえたが、私たちは私たちのことで精一杯だったので、耳をふさいだ。

少しずつでも前に進む間、娘が泣き出した。

気持ちは痛いほどわかったが、私は「泣かない!泣かない!がんばれ!」と励まし、娘を前に前にと歩き出させた。

本当なら、車から降りたところから我が家までは、そんなに距離がないはずなのに、何時間歩いただろうか…。

やっとの思いで、我が家が見える位置までたどり着いた。

私の目にうつった光景は。

瓦礫もなんにもなく、どこまでも続く黒い平地のような場所。

爆弾でも落とされて、すべて飛ばされちゃったんじゃないかと思うくらいだった。

確か、あの当たりが我が家だったであろう場所には、やはり何もなかった。

ただただ、何の言葉も発せずに呆然と立ち尽くすだけだった。

 

しばらくたつと、その黒い平地の向こうから、誰かが歩いてくる。

息子の同級生のお父さんだった。

傷だらけで、歩くのがやっとのようだった。

津波に飲み込まれたらしいが、息子を探しているようだった。

「○○は…、どこ…。○○は…、どこ…。」

虚ろな目をしながら、息子を探していた。

幸い、我が家の息子がいた高台にいたのを、私は確認していたので、すかさず場所を教えてあげたら、

「生きてるんだね!大丈夫だったんだね!」と涙声になり、

そのまま又、トボトボと歩き出し、高台の老人ホームにいる息子のもとへ向かった。

 

私たちも、ご近所さんがいるという避難所のゴルフ場へと向かおうとした、その瞬間。

目に飛び込んできたのは、はるかかなたにある、我が家の二階だった。

「あれ、あの飾り!うちの二階の部分じゃない?」

確かに我が家の二階だった。

我が家があった場所よりも、全然違う場所にあった二階。

家族皆で、その二階に向かいましたが、その黒い土が行くてを邪魔をした。

やっとたどり着いた二階の部分は、なんてことだ。

洗濯物が竿に干されたままの状態だった。

きっと、ダルマ落としみたいな状態で、スコーンって津波に真っ二つにされたんだと思った。

中に入ると、子供たちの部屋は、窓ガラスが割れていたので砂まみれだった。

私たちの部屋は、当時、鍵をかけて出勤していったのであかずの間になっていたが、

鍵がないので、夫と息子でドアを叩き割り、中へ入っていった。

中へ入って驚いた。

私が使っていた鏡台の上のものや、テレビの脇の飾りものなど、いっさい倒れていないのだ。

本当に津波の壁に乗っかったまま、まっすぐにこの場所にたどり着いたんだと思った。

とりあえず、現金や預金関係のもの、大切なもの、使えそうなものなどを

できるだけ手にもてるだけ持ちだし、避難所であるゴルフ場に向かった。




 

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↑一番最初見た光景。家が並んでいたとは思えない光景。

 



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↑我が家のお風呂場の一部が転がっていた。

 


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↑流し台の一部。

 


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↑息子の中学校の体操着が入ったままの洗濯機。
 


↑遥か彼方に見える二階の一部分。




↑黒い壁のような津波。


 

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3月12日。

ゴルフ場につくと、たくさん避難している人たちがいた。

歩いていくと、「お母さんが~…」と泣きついてきた友達もいた。

お母さんがどこにも見つからないとのことで、パニクっていた。

「大丈夫だよ!どこかに避難してるよ!」と、励ましてみたものの…、自分ではどうすることもできないのが現実。

(このお母さんは、数日後、津波によって流された建物の下敷きになっていたのを発見された。)

また歩き出すと、仲良くさせていただいているご近所さん達がいた。なんだかホっとした。

ゴルフ場について、車の中で一夜を過ごしたとのことで、

トイレがなくて困ったこと、寒いのでずっと車の中でエアコンをつけていたので、ガソリンがなくなってしまったことなど、不便な一夜を過ごしたようだ。

だけど幸い、仲良くさせていただいたご近所さん達も、全員生き延びていてくれた。

そして、避難所リストから自分たちの好きな避難場所へ行けるということで、

ご近所さん達と話し合って、同じ避難所である高校の体育館に向かうことにした。

 

これが避難所生活のはじまりだった。

 

避難所の体育館についた時、柔道の畳みが何枚かあり、争奪戦で我が家も一枚手に入れた。

その畳みの上に、とりあえず荷物をおいて、また、あの津波によって流されてしまった二階の中の荷物を取りにでかけた。

 

二階の家の部分に到着したとき、明らかに何かが違うと感じた。

干してあった洗濯物がない。飛ばされるわけがない。

盗まれたのだ。

そして中に入ると、やはり雰囲気が違う。誰かが入った形跡がある。

火事場泥棒だ。

 

震災が遭った日の夜。

海岸沿いには、ホタルの灯りのようなものが無数に点在してたという。

それは、懐中電灯の灯り。

懐中電灯で震災が遭った場所を照らし、現金を探し歩いている灯り。

聞くところによると、よそ者が多く、片手にはものすごい数の現金をわしづかみしていた人もいたという。

そして翌朝には、1階だけ津波に流されて2階は無事だったという家に侵入し、

金目のものを根こそぎ持っていく、火事場泥棒がたくさんいた。

電化製品はもちろん、アクセサリー、ブランド品、なんとカードゲームのカードすら盗んでいった火事場泥棒もいた。

蔵のあった知り合いの家には、隣の人が侵入していて、「もうこれいらないでしょ?」と言って持ち去ったと言っていた。

いくら津波でドアが壊されてなくなっていても、そこには入っちゃだめでしょう。

そして、よそから来た火事場泥棒達には、ルールがあるらしく。

「ここには、もう金目のものがないよ」というマーキングをするようで、そのマーキング方法は、トイレにウ○コをすることらしい。

我が家の2階のトイレにもあった。

もう我が家には金目のものがないんだね。

あんたらになくても、私たちには大事なものが沢山あるんだよ!バーカって当時、心で叫んだ。

とりあえず必要とするものを家族全員で何回か車に持ち運んだ。

泥がついた服でも、洗えば着れるとゴミ袋に詰め込んだ。

あの体育館にこれから寝泊まりしなくてはならないであろうと布団一式を運び出した。

思い出の品も沢山あったが、必要最小限にして車に運び出した。

運び出すときに、何度も余震があって、何回も高い場所に走って逃げた。

怖い思いをしながらも、思い出の品を一つずつ目に焼きつけるように荷造りをした。

薄暗くなるまで作業を続け、避難所である体育館に戻った。

戻ったら…。

畳みが盗まれていた…。

畳み一つあっただけで、寝るのに背中とか痛くないかな~って思ったのに、と諦めた。

そして、ご近所さん4家族で話し合い、畳みが何枚かあったので、畳みのところにお年寄りと子供を寝かせようと決めた。

毛布が1人1枚と、板付きかまぼこと、カニカマを1袋もらった。

あるだけの布団はお年寄りと子供に振り分け、私たちは体育館の床に毛布を敷き、防寒着を着たり、重ね着を着たりして、一夜を過ごした。

あの体育館用の大きなストーブの「ゴーーーーーーーーーーー」という音が今でも耳から離れない。

 

3月13日。

翌朝の朝食は、板付きかまぼこと、カニカマ。

板がついたままのかまぼこをかじったのは始めてだった。

だけど、生きるためには目の前にあるもの、なんでもいいから食べなくてはと思った。

始めて知ったことがある。

かまぼこだけを食べると…、胸焼けがしてくる(笑)

そして、その日も一日中、2階のものを運び出した。

運び出している途中で、流された付近に知り合いの家があり、そこも2階から物を運びだしていて、

「なーんだ、隣に引越ししてきたのかー(笑)」

「そうなんですよ(笑)仲良くしてくださいねー(笑)」

なんて会話もしていた自分に驚いた。

 

荷物を運び出している最中、夫が死体らしきものを見つけた。

それは、真っ黒な物体にしか見れなかった。

だから、怖いっては思わなかった。

夫がすぐさま、消防団の人を呼んできて、自衛隊の人が運びだしていた。

まるで人形のような、真っ黒い物体。

そのときなんだか、自分の感情がおかしくなっているような気がした。

感情がなくなってしまった?

 

運び出す荷物も少なくなりつつあるので、この日は早めに切り上げた。

そして帰り際に、息子の担任の先生が、生徒の安否確認を道端でしていた。

なんと、息子は行方不明リストの中にいた。

あの時、遊びに行ったであろうのお友達の家にいなくて、息子は行方不明扱いされていた。生きてますよ、先生…。

さすがに夜ご飯もかまぼこではとは思い、帰り道、コンビニに買い物に寄った。

しかし、陳列棚には、ほぼ何にもなかった。

チョコレートが数個、アメが何袋かあるだけで、何にもなかった。

でも、そのチョコレートとアメを買い占め、また避難所の体育館に戻ったが、

子供たちには、車の中で食べてから体育館に来なさいと告げた。

なぜなら、我が家だけ別なものを食べているのは負い目を感じるに違いないと思ったからだ。

だが、その日の夜は、弟くんがお店が開けれないので、お店の残り物を差し入れをしてくれた。

美味しかった。

ご近所さんたちも、色んなところから差し入れがあったりで、差し入れの交換などもして、各々ちゃんとした食事ができた。

そして…、次の日の運命を迎える日がくることになった。

当時の私たちには、外の情報がまったく入ってこなく、なんにも知らなかった。

こんなことが、外で起きているなんて、想像もしていたなかった。

 

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2011年3月11日、福島第1原発は、地震の揺れを検知してすべて停止。

1~3号機の緊急炉心冷却装置(ECCS)稼働用の非常電源が故障。

政府は原子力災害対策特措法に基づき、原子力緊急事態を宣言。

 3月12日、福島第1原発1号機で水素爆発。

 3月14日、福島第1原発3号機で水素爆発。

 3月15日、福島第1原発2号機で爆発音。4号機で爆発、火災発生(自然鎮火)した。

 

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↑避難生活の様子

 


↑原発爆発の様子

 

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3月13日。

その日の夜、ご近所さんの中の旦那様が、ラジオで原発が爆発したって言ってるけど…、ってポツリと言った。

えっ?

でも、大したことないんだろうな、ぐらいにしか思っていなかった自分だった。

 

3月14日。

息子と二人で少しだけ2階の家に行ってみることにした。

もう積み込む余裕もない車だし、だいたいは運んだつもりではいたが、どうしても諦めがつかなかった。

それは昨晩、区長さんから、この2階の部分の家の取り壊しの承諾をしに体育館に来たからだ。

2階の窓の向こう側には、この家で押し寄せられた瓦礫や車が窓全体を覆っていた。

なので、そこにも誰か埋もれているかもしれないとのことで、我が家の2階を解体したいという申し出が区長さんからやってきた。

そこには住めないとはわかっていても、取り壊されるという響きに戸惑いを感じた。

そして、なぜか、「ごめんね」と呟いた自分がいた。

2階の家の見納めも終わり、また、体育館に戻った。

 

その日から、セブンイレブンさんのご好意により、おにぎりが配布された。

これが温かかったら、どんなに美味しいかと思えたが、それが食べれるだけ感謝しないととも思える自分がいた。

夕方、ご近所さんの中の1人が、「ちょっと集まってください」と声をかけられ、4家族が集まった。

どうやら、原発爆発は、かなり深刻のようだった。

そして、オキシドールを手渡された。

「4家族分くらいしかないので、周りに気づかれないよう静かにこれを飲んでください」と小声で言われた。

どうやら、飲むことで放射能から身を守れる?みたいで、半信半疑ではあったが、それを飲んだ。

まずかった…。

そして、体育館の中で放送があった。

「明日から、しばらく外へ出ないようにしてください。」

外へでないでって…、トイレは外にあるじゃない…、と頭をよぎった。

そして、4家族がそれぞれの家族単位で集まって、今後をどうするかを協議した。
 

我が家は、子供たちを一番に優先に考えた時、「ここからまず遠くに逃げよう」と決断した。

なるべく早くに逃げた方がいい。

なら、明日には出よう。

我が家の決断。

 

ある家族は、茨城県の知人の家に明日にも出る。

 

ある家族は、行き場がないけど、とりあえず関東方面に明日にでも逃げる。

 

ある家族は、私たちはここに残る。子供たちだけは親戚に預ける。

 

それぞれ4家族の決断。

 

体育館の中には知り合いもたくさんいて、今後をどうするか聞いてみると、

逃げ出したいけど、車が流されちゃってどうしようもない、という人もいた。

ガソリンがないから遠くまでは逃げれないという人もいたな。

それを聞いたときに、とっさに思った。

そういえば、息子を探しに行く前に、なぜか夫はガソリンを入れてくるといって入れてきたっけな。

夫の決断は正しかった。

きっと、こうなるのを予測していたかのようだった。

当時は、原発が爆発したことにより、ガソリン輸送車が福島入りを拒んで、ガソリン不足になっていた。

入れたくても入れられないガソリン。

お金があっても、食べ物も飲み物も、ガソリンも、何にも手に入れることのできなかったあの時。

何が一番大切なのか、考えさせられた。

 

3月15日。

朝を迎えた。

それぞれ出した決断に向けて、動きだす日がきた。

 

 

 


 

 

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