おはようございます。キキキです。
19世紀のロシアの文豪、ドストエフスキーの『罪と罰』を読みました。
読んでみて衝撃を受けたのは、主人公はじめとした人物のある種病的な精神描写が非常にリアル、ということ。
「この人たち精神疾患持っていますよね」と思わずにはいられないほど、登場人物らの言動などを通してカオスな精神状態が伝わってくるというか。。。
今日のブログは、『罪と罰』のリアルすぎると感じた精神描写をメインに感想を書いていきたいと思います。
記事全体で5000文字近くあるので、お時間あるときに読まれることをおすすめします(汗
【注意】ネタバレ全開なので、本の内容を知りたくない方は、ここでストップください!
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『罪と罰』において、病的な精神状態がリアルに描かれているな、と感じた点は3つあります。
- 主人公の言動がリアル
- 主人公の気質がリアル
- 医者の見立てがリアル
主人公の言動がリアル
主人公ラスコーリニコフは、貧困と老女殺しの罪を犯したことによって、精神的に混乱をきたしていくわけですがその様子がとにかくリアル。ある時は絶望が心の底まで支配しており、なにもかもに無気力で投げやりな態度を示します。でも、一方では妹ドゥーニャの未来を案じて、彼女の婚約に反対したり、婚約者と舌戦を繰り広げたりしています。ドゥーニャの婚約にまつわるラスコーリニコフは、毅然とした態度をとっており、つい1シーン前の無気力な彼とはまるで別人のように感じられました。
とにかく、感情の起伏が激しい。
起伏の激しさが病的なものだなと感じたシーンの1つが、2巻での母との会話です。
「もうやめてよ、母さん」母の顔も見ずにその手を握りしめると、彼はいかにもばつが悪そうにつぶやいた。「話は、ゆっくり、あとで!」
こう言うと、彼はふいにどぎまぎし、まっ青になった。またしてもあの日の怖ろしい感覚、死んだようなひんやりとした感覚が心のなかを駆けぬけていったのだ。ふたたび彼は、期せずして完全にはっきりとさとったのだった。たったいま、自分が怖ろしい嘘をついたことを、今となってはもう、ゆっくり話をする機会などは未来永劫めぐってこないはず、そればかりか、なんについても、どこのだれとも、もうこれ以上話をすることはぜったいにできない、ということを。この苦しい思いがあまりに強烈な印象をもたらしたため、一瞬彼は、ほとんどわれを忘れてすっくと立ちあがり、だれの顔も見ずにそのまま部屋を出ていこうとしたほどだった。
(『罪と罰』2巻p88より引用)
この日のラスコーリニコフは、はじめのうちは、昨日より調子がよさそうであると、母や妹、友人ラズミーヒンたちに感じさせており、ラスコーリニコフ自身も「もうほとんど治った」と表現していました。しかし、最後にやってきたのは上述の絶望感。会話のなかでは、その場にいた人たちから非難されたとか、直接的なきっかけはなにもなかったはずなのに、「なんについても、どこのだれとも、もうこれ以上話をすることはぜったいにできない」と、突然根拠もなく決めつける思考に陥っています。
この、突然くる絶望的な感覚が、すごく病的で、でも理解できるなと思いました。
というのも、私自身、この感覚をうつ病を患うなかで経験しているからです。
特段生活に変化はなかったはずなのに、なんだか胸が重苦しい感じがやってきて、気づいたら「全然だめだ」「うまくいかないに決まっている」というような思考に支配されている。うつ病は、回復期においてよくなったり悪くなったりを繰り返しながら回復していくもの※とのことなので、私が経験した感覚は病気からくるものだと理解しているのですが、精神的にまいっていると人はこういう感覚に陥りやすいのかもしれません。
なので、ラスコーリニコフの精神が高揚したり沈んだりを目まぐるしく繰り返す様子は、すごくリアルな描写だな、と思っています。
※参考:東和薬品『うつ病について』
主人公の気質がリアル
ラスコーリニコフの精神の混乱は、老女殺しが1つの原因ですが、どうもその前から精神的にまいっていたように感じています。
そう感じたのは、彼の友人、ラズミーヒンがラスコーリニコフの母と妹に向かって語る以下のセリフです。
「(省略)ロジオーンと知りあって一年半になりますが、彼って男は、気むずかしくて、陰気で、傲慢で、プライドが高いんです。最近は(いや、ずうっと前からかな)疑りぶかくなって、欝気味で。心が広くて、気はやさしいんですがね。自分の感情を外に出したがらないし、気持ちを言葉であらわすくらいなら、むしろ冷徹でおしとおしたりもする。だけど、ときたま、鬱的なところがぜんぜんなくなって、たんに残酷とおもえるくらいつめたくて、無感動になっているときもある。じっさい、ぜんぜん正反対のふたつの性格が、交互にくるくる入れ替わってるみたいなんです。おそろしく無口なときもありますしね!忙しくて時間がない、邪魔ばかりされているといいながら、そのくせ寝ころがってなんにもしない。皮肉屋じゃないですけど、それも、ユーモアのセンスがないからじゃなく、まるで、そんなつまらないことにつぶす時間なんかないって感じです。人の話はおしまいまで聞かないし。みんなが興味あることにはぜったいに興味をしめさない。そうして、おそろしく自分を買いかぶっている、でも、まんざら、それだってわけがないんじゃないみたいなんです。(省略)」
(『罪と罰』2巻p53,54より引用)
※補足:ロジオーンはラスコーリニコフのことです。
老女殺しはこの場面から1週間程度前の事件なので、「最近は(いや、ずうっと前からかな)疑りぶかくなって、欝気味」という状態は、罪を犯すだいぶ前からあったようです。ラスコーリニコフは本編の数ヶ月前に、お金が払えず大学を辞めており、その後は引きこもり気味な生活を送っている様子も他のところで語られているので、どうもじわじわと欝気味な状態になっているよう。
そして、上述のラズミーヒンのセリフから、ラスコーリニコフの気質は以下のように書かれています。
- 気むずかしくて、陰気で、傲慢で、プライドが高い
- 心が広くて、気はやさしい
- 自分の感情を外に出したがらない
ここからは私の解釈になりますが、「気はやさしいけれど、感情を外に出すのが苦手」というのはストレスを溜め込みやすいでしょうし、「傲慢で、プライドが高い」というのはある種の傷つきやすさがあったのではないか、と考えています。
傷つきやすいから、感情を外に出さない。
なぜなら、反論されると傷つくから。
その結果、傲慢に見えてしまうし、実際に反対意見を聞く機会もないから傲慢になってしまう。
もともと繊細で傷つきやすい気質があったからこそ、極度の貧困生活を送った結果、「最近は欝気味」なまでに考え方が変容してしまった。その極限が老女殺しだったのではないか。
そんな風に思わせる、ドストエフスキーの主人公の気質に関する描写は本当にリアルだと思います。
医者の見立てがリアル
ラスコーリニコフの精神状態を「病気」という観点から語ってくれるのが医者のゾシーモフ。
ゾシーモフは、ラスコーリニコフに対し、彼の状態をこう語っています。
「あなたが完全に回復できるかどうかは、要するに、ただもうあなた自身にかかっているってことですよ。こうして話ができるようになったんですから、よくよく言っておきますがね、そもそもの原因を取りのぞくべきなんです、つまり、原因の根っこです、あなたの病的な状態の引き金となった原因をです、そうしたら治りますよ、そうしないと、かえって悪くなるかもしれない。そのそもそもの原因は、ぼくにはわかりませんが、あなた自身は知ってるはずなんです。あなたは賢い人だから、もちろん、自分をよく観察してきたでしょう。ぼくの考えでは、あなたの不調のはじまりは、あなたが退学したときと、ある程度、重なっているような気がします。あなたは手持ち無沙汰じゃいられない人ですから、労働と、それにしっかりと定められた目的、これがおおいに助けになると思いますよ」
(『罪と罰』2巻p74より引用)
ゾシーモフは「そもそもの原因を取りのぞく」と鬱的な精神状態から回復すると考えています。それには自分をよく観察することが必要だとも。
現在の精神医学の考え方だと、必ずしも原因を突き詰めて取り除く必要なないと思いますが、当時の考え方としては最先端だったのかもと思っています。というのも、『罪と罰』が出版された約20年後に、精神科医のフロイトが精神分析を開発しているから。精神分析は患者の無意識の領域に入り、言語化していくことで症状の消失をはかる方法だと理解しています※。つまり、意識できていなかった精神不調の原因を意識・言語化することで、精神不調を取り除く方法なのかと。
このフロイトの精神不調の原因に至るための手法が開発される20年も前に、すでに原因を突き詰めて解消すれば回復するのではないか、という考え方があった様子が垣間見えるこの描写は、精神医学の歴史のリアルが見えてくるようで、すごく興味深いです。
ちなみに、上述のゾシーモフの見解に対するラスコーリニコフの返答も秀逸です。
ゾシーモフは「働いたらどうか」と提案していますが、それに対してラスコーリニコフは「早く大学に戻る」と答えています。当時のラスコーリニコフは、経済的に困窮しており、復学は現実的ではなかったはずです。なので、ラスコーリニコフは前向きな回答をしているように見せかけて、ゾシーモフの提案を拒絶しているようにもみえ、彼の絶望の深さがうかがえる描写になっているのかなと思っています。
(当時スヴィドリガイロフがドゥーニャに大金を渡したいという話もあったので、この場面においてラスコーリニコフが本当に経済的に困窮していた状況だったかは、読み取りが浅いかもしれないです。。。)
※参考:玉川大学大学院『原田眞理先生 精神分析とは』
リアルすぎる精神描写はドストエフスキーの経験が生かされている?
『罪と罰』の精神病者がリアルすぎると感じた理由を3つ挙げて書きました。
ではなぜ、このようなリアルな描写ができたのか、と考えたときに思い当たるのは著者ドストエフスキー自身が当時おかれていた状況です。
ドストエフスキーは当時、身内の不幸が重なったこと、彼の兄が創刊した雑誌が廃刊となり借金が残ったこと、また自身のギャンブルによる散財もあって、非常に追い詰められていました。そのような状況下で、出版業者との契約(これもかなり無謀な契約だったとのこと)から長編を執筆する必要があったため、『罪と罰』は誕生しました※。
だから、ラスコーリニコフをはじめとする精神的に追い詰められている登場人物たちが抱える絶望感は当時のドストエフスキーが感じたものが反映されているのかもと思いますし、ラスコーリニコフの激しい精神の起伏は複数回ギャンブルで財を失っている著者の経験が生かされているのかも、と思いました。
※参考:Wikipedia『罪と罰−執筆の背景』
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というわけで、今回は『罪と罰』の精神描写のリアルさについて書きました。
うつ病を患う身としては、自分以外にもこういう精神状態を感じる人がいるんだな、ということが客観的にみれて、共感とともに少し励まされるようにも感じました。描写がリアルすぎるので、うつが重症なときに読むのはお勧めしませんが。。。
精神描写以外にも、ラスコーリニコフが罪を犯すことになった理由や当時のロシアの様子など、考えることがたくさんあるので、小説を読んであれこれ考察したい方にはおすすめです。




