<足尾鉱毒事件>
記念館:http://www.cnet-ga.ne.jp/syozou/
・1902年(明治35年)(田中正造の動き)
渡良瀬遊水地(渡良瀬川と思川と巴波(うずま)川の3河川の交流する場所。栃木県・群馬県・埼玉県・茨城県の4県をまたいでいる。
洪水で利根川の堤防が決壊し 国と埼玉県は、それを復旧しなかった。埼玉県は、遊水地化計画を断念した。
明治36年から翌年にかけて堤防の「修築」の名のもとに破壊をした。ついに37年に洪水が襲来して、村民を苦しめた。
やがて「土地収用法」が適用され、栃木警察署長が『買収に応じるか、拘留に処されるか選べ』と迫った。
(明治46年6月29日、谷中(やなか)村滅亡史に記されている)
・反対運動が最も盛んになったのは、1896年の洪水以降で、田中正造の主導の元、10月4日、群馬県邑楽郡渡瀬村(現在の館林市下早川田町)にある雲龍寺に、栃木・群馬両県の鉱毒事務所が作られた。ここは、被害農民の集結所となった。この後、東京への陳情に出かける農民と警官隊との衝突も起きた。このような陳情には当時名がついておらず、農民らは「押出し」と呼んだ。田中は第4回押出しを行うための機関、鉱毒議会を現地栃木・群馬県で組織させた。押出しについては川俣事件も参照のこと。
・私の近辺でも関係深いところがあったのにも驚きである。
1971年に毛里田で収穫された米からカドミウムが検出され、直後、農民らは80年分の賠償金120億円を古河鉱業に請求した。1972年、群馬県は、米の汚染は足尾銅山の鉱毒が原因と断定。3月、農民971人が古河鉱業に賠償金総額39億円の支払いを求め群馬県公害審査会に調停を申請した。4月、県は毛里田地区の土壌汚染についても足尾銅山の鉱毒が原因と断定。1974年に、農地359.8haを土壌汚染対策地域農用地に指定した。
なんか 全然まとまっていませんが 関心のある方は、いろんな資料で 調べて見てください。
太田市毛里田(祈念牌の裏面には)
「苦悩継(つた)ふまじ されど史実は云ふべし」

