人を、「信じる」っていうのは、どういうことなんでしょう。
もし、
「私がこれだけのことをしてあげているんだから、あの人も私にきっと、これだけのことをしてくれるはずだ」
と、無意識にせよ期待したり、
「あの人ならきっと、こういうときにはこういう行動をとってくれるだろう」
と考えることを、
「人を信じる」というのならば、
ある意味、それは、すごく都合のいい、ただの「思い込み」だと思います。
だって、その人と自分とは、あくまでも違う人間なのだから。
自分が100のことをしてあげたからといって、
その人が必ずしも、恩に着るとは限りません。
それどころか、良かれと思ってしたことが、裏目に出る場合もあります。
でも、そういうときも、人間には知恵があるから、とりあえずは「ありがとう」っていいますよね。
すると、相手が本当に喜んでいるのか、そうでないのか、わからなくなってしまう。
大好きな人や、親しい人に対しては、
誰しも、「自分と似ている」と思いたがる傾向があります。
これが、そもそもの大きな間違いであって、
いくら親しかろうと、仲良くしていようと、
その人と自分は違う人格だし、異なる行動基準で行動しています。
自分にとっての「常識」は、相手にとっての「非常識」であることなんでザラです。
必要以上に人を信じなくてもいい、と思いますよ。
嘘をつかれることもあるし、
お金を借りたまま返さない人もいます。
大親友と思っていた人が、陰で悪口を言っていることもあります。
でも、人間って、「そんなもん」なんですよ。
そういうとき、
”裏切られた”、”悲しい”、”くやしい”って思うんじゃなくて、
「そういう人なんだな」と、
相手を”理解する”ことのほうが、大切だと思います。
このメールをくださったかたも書いているとおり、
相手が自分の望むとおりに動いてくれるわけじゃないし、
思い通りの答えを返してくれるわけじゃない。
人間って、最初から、信用できるものなんかじゃないと思います。
だって、自分自身だってそうじゃないですか。
今晩はピザが食べたくて仕方なかったのに、
一晩寝て朝になったら、ピザなんて全然興味なくなってる。
人間の気持ちほど、移ろいやすい、信用できないものはありません。
だから、相手が自分の考えていた行動をとらなかったとき、
「裏切られた」と落ち込むより、
この人はこういう考え方をする人なんだな、とか、
こういう行動規範で動く人なんだな、と、
相手のものさしを理解することが必要なんだと思います。
そうやって、違いを認めあえていかない限り、
お互いを知ることができないし、
それ以上仲良くはなれない。
もちろん、違いを認めた結果、もう仲良くしたくないと思ったら、それもいいと思います。
人間を、必要以上に信用しなくてもいいんですよ。
そしてまた、逆に、人間を過剰に疑ってかかる必要もありません。
こいつはどうせ、とか、
あいつは自分にとって敵だ、とか、
そんなことを思う必要もないと思う。
信用せず、敵視せず。
このバランスが大切なんじゃないかな。
私は、このメールを書いてくださった方は、
じつはとても心の優しい方だと思います。
だって、ほんとに自己中心な人だったら、
こんなことで悩みもしません。
ただ、我こそは正義なり、と、わが道を進むだけ。
きっと、すごくつらい思いをしてきたがゆえに、
”人を信じたら裏切られる”
”人に期待したら失望させられる”と考えるようになって、
→だったら、誰をも信用せず、一人で何事も乗り越えていけるようになろう
と、思ったんでしょうね。
つらいですよね。
しんどい日も、泣きたい日も、いっぱいあるよね。
だから、時には周りの人や、友達に、甘えたらいいんですよ。
愚痴も言ったらいいんです。
かといって、求めるものが得られなくても、
失望しなくていいんですよ。
「あ。愚痴聞いてくれなかった!」
「えー。こんなにつらいのに、味方になってくれないんだ!」
そう言っちゃえばいいんです。
「助けてもらおうと思ったのに、助けてくれなかったなー」
って。
大丈夫です。助けてくれる人もいるし、助けてくれない人もいる。
親身になってくれる人もいるし、なってくれなくて逆に敵対してくる人もいる。
それだけのことです。
「そんなもんなんだな」って。
うそ笑い、いいじゃないですか。
うそ笑いでも、場の潤滑油になることもたくさんあります。
そのうち、うそ笑いがホント笑いになることもあります。
うそ笑いすらできないくらい、しんどいときは、
ブスーッと不機嫌そうにしとけばいいんですよ。
機嫌のいい日も、不機嫌な日もある。
”いい人”モードのときもあれば、”わるい人”モードのときもある。
人間ってそんなもんです。
そのうち、腹わって話せる人ができるから、心配ないです。
”一人で生きていく!”って、頑張り過ぎなくてもだいじょうぶ。