戦後間もなくの1947年冬、GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)か軽井沢における、不動産の調査を行った。

アメリカ、イギリス資産など戦時中に日本に没収されていた建物を返還させる目的であった。

そうして作成されたリストの中に軽井沢避暑団の所有として「学校」という物件がある。確かに学校のような作りである。

 

地図も作成されている。それによると現在のショー通りとテニススコート通りに挟まれた現在のジュニアテニスコートの先である。現在は商業ビルになっているあたりだ。また軽井沢会の事務所は今も同じ場所にある。

 

この軽井沢避暑団の建物は戦前、「ジュニアビルディング」と呼ばれた。

証言によれば講堂と教室が一緒にあり、天井からは体操の遊具がぶら下がり、ピアノも置いてあった。

そして1944年夏には大森にあったドイツ人学校が疎開してきた。

そのまま終戦を迎えたので、戦後の調査時には「学校」と表示された。


かなり大きい建物であるがその後どうなったのか、筆者が聞いた限りでは覚えている人はいなかった。

しかし最近新たな情報を入手した。まずは1960年代の地図には「公民館」として表示されていた。

また幼少期から軽井沢で夏を過ごしてきたYさんが、同じころの写真を送ってくれた。

ジュニアテニスコートの先の建物は、戦前のままの姿ではないかもしれないが、依然存続していた事が分かった。

 

ここで軽井沢会テニス部の「100年の歩み」という本を読むと、ある方が座談会の中で次のように述べている。

「ジュニア(がプレイするのは)はジュニアコートだったから。今の反対側。(現在は3面だが)2面しかなかったなかったですよね。それと建物がありました」

その後この建物が壊されて、そこにもコートが1面出来たのである。

 

Yさんはこの公民館を何度か訪れたことがあるという。

「しばしば催し物をしており、ピアノコンサートだったり、ジーンズの業者などが数日販売したりと色々活用されていました。
古い木造体育館のような作りが記憶にあります。催しの内容よっては相当な賑わいでした。
まだ小川が蓋をされていない時期でしたので、テニスコート通りから小川の横を歩いて建物に入ったのを覚えてます」

 

まさに下の間取り図とぴったり一致する。

「ピアノコンサートの時は2階席のような場所もあって、そこから1階を見ることが出来たと記憶している」との追加の証言もいただいた。

 

軽井沢町が制作した年表(軽井沢町のあゆみ)から公民館の項目を拾うと、

1951年 軽井沢町公民館発足。戦後6年経って建物の利用が再開されたか。

(以降何カ所かに公民館が開かれるが、ここが最初で間違いなかろう)

 

1975年 現在「旧軽井沢公民館」のあるオーディトリアム通りに移転する。

おそらくこれと前後して、軽井沢避暑会の建物は老朽化で取り壊されたのではなかろうかと想像したが、先に紹介した「100年の歩み」によると、

「1992年 軽井沢会体育館(ジュニアビルディング)解体工事」と書いてある。

割と最近まで存続していたことになる。

 

この建物は戦前から一貫して、軽井沢会の所有であったようだ。公民館時代は町に貸していたのであろう。

現在こちら側のコートを「ジュニアコート」と呼ぶのは、かつての「ジュニアビルディング」から名前を踏襲しているのではないか?

 

なお現在の公民館の建物は当初の診療所が病院へと発展し、1954年に正式に「軽井沢病院」として開院する。

1974年には、軽井沢病院は中軽井沢に新しい病院棟を建設し、これが今の「軽井沢病院」である。

玉突き式に入居者が変遷するのも興味深い。

 

現在の印象は結構雑然とした公民館の建物である。(目下閉鎖中)

「グーグルストリート」より

 

いつも状況を提供してくれるYさんによると隣に新しい公民館がすでに出来ている(5月9日)

 

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