第一次世界大戦中、敵国人となったドイツ人が30人、軽井沢で夏を過ごしたことは第一次世界大戦下 ドイツ人捕虜の妻が過ごした軽井沢で紹介した。
それに続く話を軽井沢を愛した作家、堀辰雄の『狐の手套(てぶくろ)』(1936年刊)に見つけた。一部現代語に直して紹介し、コメントを加える。
「一つの丈の高い、小さな森が、K(軽井沢-筆者)村からずっと北方に、それだけがなんだか原始林のまんま取り残されたように、立っています。
町の中心から2キロメートルくらいも離れていましょうか。小さいになりに、昼間でもうすぐらいほど、樅などのこんもりと茂った森です。西洋人たちはこの村から見える丘の上の奇妙な形をした岩などまで大概『風琴岩(オルガンロック)』とか『巨人の椅子(ジャイアントチェア)』とかいう綽名をつけていますが、この森にもやはりドイツ語の綽名がつけられています。「匈奴の森(フンネンヴェルトヘン)」というのです」
→場所は町(旧軽井沢)から北へ三笠ホテルの方へ向かう途中を指す。
オルガンロックは愛宕山に向かう途中にある剝きだした岩で、今もこの名前は残る。ジャイアントチェアは記述が少ないが、軽井沢駅南側の軽井沢プリンスホテルゴルフコースの東側にある矢ヶ崎山の山頂近くにある岩」。(東京紅団より)
「匈奴の森」のドイツ語「フンネンヴェルトヘン(Hunnenwäldchen)」という、今日普通のドイツ人も一瞬首をかしげるようなドイツ語の単語は、堀はドイツ人から聞き取ったのであろうか。
「匈奴の森」は水戸徳川家13代当主徳川圀順の軽井沢別荘(2425番)よりさらに奥の場所である。
「ここには古くから十数戸も別荘があって、(しかし中にはもう壊れたまま打ち棄てられているのもありますが)、ドイツ人ばかりが住んでいます。
夕方など、この森の中から、どうかするとフルートの音のようなものが漏れてくるそうです」
→堀は『美しい村』ではチェコ公使館からピアノの音が聞こえてきたと書くが、ドイツ人はフルートである。
当時のドイツ人は森の中では歌を歌ったりした。それを聞いたイギリスの婦人が「あそこには匈奴が住んでいる」と言ったのが、「匈奴の森」の語源のようだ。
「なんでも欧州大戰中ずっと、ドイツ人ばかりでこの森に集つて、他の部落とは全く沒交渉に暮らしていたそうですが、その時他の外人たちがこの森にそんな綽名をつけたのだと云ふことです。それなり(それ以来?)ずっとこの森がドイツ人の部落みたいになつてしまったようでして、そのせいか、私が散歩がてらその森の中にはひつて行くと、いつも熊笹の中から、嗄れた叫び声をあげながら、跣足で飛び出してくる小さな子供たちの感じも、なんとなく野蛮です。
(中略)
この森を私はたいへん愛しています。欧州大戰当時、この森の中に閉じこもって数年の間不安に暮らしていたドイツ人たちのことは、ちよつと小説に書けそうな気もします。(中略)」
→第一次世界大戦中(1914年から918年)は、日本の他、英仏米(米は途中から参戦)とも交戦状態にあったドイツ人30名は、軽井沢の奥の方でひっそりと暮らした。
1920年代半ばころ再び軽井沢に姿を現したドイツ人は、全国の大学で教鞭をとる教授を中心に旧軽井沢のハウスナンバーは2400番台あたりの半田善四郎の貸別荘で過ごしている。この辺りがかつての「匈奴の森」である。
堀辰雄がこの話を書いたのは、第一次世界大戦が終了して20年くらい経ってからである。
「匈奴の森」の言い伝えはまだ人々の記憶に残っていたようだ。
堀は彼らの事を小説に書きたいといい、軽井沢でひっそりと暮らすドイツ人の話を聞いて同情、好意を抱いているのがわかる。
以上
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