第一次世界大戦は1914年7月28日に欧州で勃発し、日本は8月23日にドイツに宣戦布告した。
日本軍とイギリス軍は遼東半島の青島のドイツ軍の要塞を攻撃し、約4700名のドイツ軍およびオーストリア=ハンガリー帝国軍の将兵および民間人は捕虜として日本に連れて来られて、12か所に開設された俘虜収容所に収容されたのであった。
収容所のひとつ習志野収容所の、ドイツ俘虜 オーケストラの碑
これに関連し、当時の新聞に興味深い記事を見つけた。一部現代語に直して紹介し、筆者の考察を加える。
最初は東京朝日新聞 1917年7月17日 「青鉛筆」の欄である。
「信州軽井沢の避暑客中には現在30名のドイツ人およびオーストリア・ハンガリー人がいる中に、ドイツ人俘虜将校の妻3人もいる。デンマークの女ブランニヤガード(24)というのはすこぶる美人だが、これは目下福岡収容所にあるドイツ将校ベッセン・タノラ(35)と許嫁の間柄。
アンネ・リゼー・グラホー(25)。之も外人中に美人の評(いわれ)あり。その夫は同じく福岡収容所にいる。
残る1名のフォン・ボルゲル(30)というのは、3歳の児オットカールの他に中尾ふみ子という侍女を連れて、三笠ホテルにいるが、昨年のキャンベル氏事件に恐れたものか、所持金5千円を軽井沢到着早々ホテルの主人に託して、1円たりも身に付けていない」
記事の載った「青鉛筆」は1916年3月29日に東京朝日新聞(現朝日新聞東京本社版)で連載開始。時事のネタを取り上げ、その評論やコメントを行う欄で今日まで続いている。その青鉛筆が始まって1年ほど経っての記事である。
「青鉛筆」という(辛口の)コラムであることを考えると、記者は敵国の捕虜の夫人が高級別荘地軽井沢で、優雅に暮らしていると批判したかったのであろう。
日本はドイツと戦争状態に入っても、滞在するドイツ人に対し、就業は禁止したが滞在は認めた。戦後もドイツ人の知識は必要になるであろうという考えからであったが、貯えだけで暮らすというのは厳しい条件であった。
そしてこうして滞在を許された30人のドイツ人が、敵国の軽井沢で夏を過ごした。そしてそこには青島で捕虜となったドイツ人将校の夫人がいたのも興味深い。将校は本国から遠く離れた青島で赴任するに際し、妻を帯同することを許されたのであろうか?もしくは現地での婚姻か?なお当時は専ら「俘虜」という言葉が用いられたが、「捕虜」と同義である。
残された捕虜収容所の写真には男性しか写っていない。しかし実際は女性も来たが、収容所には収容されることはなかったのだ。
朝日新聞がそうした若き夫人の容姿をしきりに褒めているのは隔世の感がある。同紙は今では反ルッキズムの旗手である。
「キャンベル氏事件」とはちょうど1年前の1916年7月16日に、旧軽井沢563番地滞在のウイリアム・キャンベル氏とその妻が、就寝中に強盗に押し入られ殺害された事件の事である。563番は神宮寺の裏辺りである。
フォン・ボルゲル夫人は、日本人の侍女を連れ、最高レベルの三笠ホテルに宿泊している。5千円相当の資金は青島から持参して、日本でも没収されなかったのであろうか。
旧三笠ホテル。2015年撮影(耐震補強などで改装される前の姿)
次は先の記事の1日前の7月18日付けの国民新聞(現在の東京新聞の前身のひとつ)からである。
「高原の夏 憲政村と成金村
軽井沢に来てからもはや1週間になる。……汽車が停車上に着く毎に、多くの避暑客が吐き出された。しかしその8分通りは外人の群れであった。大きな鞄や荷物と一緒に彼らは山の貸別荘やホテル(三笠、万平、軽井沢の各ホテル)に運ばれて行った。
『今年はもう避暑客が1400名から入りました。外人はその半数を占めています。その中にはドイツ人も30名ばかりおりますので、高等視察係の方もなかなか忙しいです』。
巡回に来た巡査の一人はこう言って報告していった」
ここでもドイツ人が30名軽井沢に滞在していることが述べられており、これがドイツ人の数と考えて間違いないであろう。記事から外国人避暑客が700名と推測すると、30名はほんの一握りだ。しかしながら敵国人ゆえに、日本の警察は目を光らせていたことが分かる。
第一次世界大戦下の日本のドイツ人の実態の一端を知ることが出来た。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
メインのホームページ「日瑞関係のページ」はこちら
私の書籍のご案内はこちら
「又心の糧(戦時下の軽井沢) 」はこちら


