大学の歴史的建造物の訪問シリーズは、今回上野の東京芸術大学。同大は1887年に創立され1949年に大学が設置された。道路を挟んで北側が音楽学部で、南側が美術学部である。どちらも近代建築の宝庫だ。
本編では現在の写真を紹介すると共に、こうした建物で教鞭をとったと推測されるドイツ系音楽家の戦時下の様子を簡単に紹介する。
<正門>
音楽学部の正門は1914年(大正3年)頃の竣工であったが、令和初期に当時の煉瓦を可能な限り再利用しつつ、段階的に建て替えられたという。これは歴史的建造物と呼べる?
<赤レンガ1号館>
竣工は1880年(明治13年)、設計は林忠恕。都内に現存する最古のレンガ建築。
レンガというと一つ一つが長方形状の印象だが、経年で丸みを帯びた感じ。
相当の古さを感じるが、デザイン的にはややシンプル。
<赤レンガ2号館>
竣工は1886年(明治19年) 、設計は小島憲之。
旧東京図書館書籍閲覧所の書庫として建てられた。この図書館には、森鷗外や樋口一葉も通っていたとか。
建物はデザイン的には1号館よりアクセントがあり、印象的な外観。
<正木記念館と旧東京美術学校玄関>
次は道の反対側の美術学部である。
次の写真の左の正木記念館は1935年(昭和10年)竣工で東京都選定歴史的建造物。
右は旧東京美術学校玄関で1913年(大正2年)竣工。東京都選定歴史的建造物。
道路から撮影できる。
< 旧東京音楽学校奏楽堂>
1890(明治23)年に東京音楽学校(現在の東京藝術大学音楽学部)の校舎(演奏会場)として建てられた。
上野公園内へ移築され、1987年に一般公開。(この日は休館日だった)
壁の下見板張りのような横木が、人工的な材質という印象を持つほど、整っている。屋根が瓦葺きの和洋折衷建築。写真からも何とか瓦の感じがつかめる。
<第二次世界大戦下のドイツ人音楽教師>
話は飛ぶが戦争も終盤、外務省はドイツ人音楽家について、ドイツ大使館の情報に基づき、以下のように3つのカテゴリーに分けて記している。
そこに東京芸術大学大学史史料室の作成した「音楽取調掛と東京音楽学校(東京芸術大学音楽学部部の前身)の外国人教師たち」と照らし合わせ、その説明文を書き加える。(芸大)と注記。
彼らの多くが東京音楽学校の教師だったことが分かる。さらには筆者の補足を添える。
1 日本において活動するドイツ人音楽家
イ.ハーリヒ・シュナイダー教授
彼女については筆者は別の所で「ドイツ人音楽家エタ・ハーリッヒ=シュナイダーが見たリヒャルト・ソルゲ」というタイトルでかなり詳しく書いた。
軽井沢で終戦。(芸大教師ではない)
ロ.ヘルムート・フェルマー教授
昭和13(1938)年4月13日付けで東京音楽学校の講師となる。昭和15(1940)年12月8日に開催された紀元2600年記念祝典にて、R. シュトラウスの《祝典音楽》を指揮。1945年8月31日、東京音楽学校解雇、武蔵野音楽学校の講師となる。(芸大)
1945年5月9日、ドイツ大使館では国旗を半旗にして「ドイツのための戦いに倒れた総統アドルフ・ヒトラーを偲ぶ追悼時間」を催した。その際に日本フィルハーモニー管弦楽団の指揮に立ったのがフェルマーであった。かなりナチス寄りであったと考えられる。疎開せずに東京で終戦。
ハ.リア・フォン・ヘツセルト 東京音楽学校
昭和13~20(1938~1945)年に東京音楽学校で唱歌の授業を担当した。(芸大)
軽井沢で終戦。
ニ.マンフレッド・グルリット音楽総長
ナチスの圧迫を逃れて昭和14(1939)年に来日。6月26日乗杉校長から文部省に再度採用を上申し、30日許可、東京音楽学校教師となる。同18(1943)年まで作曲、ピアノ、合奏を指導。指揮者としても活躍し、オペラの日本初演に数多く関わった(芸大)
「音楽総長」とは藤原歌劇団の常任指揮者のことか。軽井沢で終戦。
ホ.パウル・ショルツ(44年9月20日逝去?)
大正2(1913)年に来日し、東京音楽学校教師に就任。多くの弟子を育て、大正11(1922)年に退職。その後も東京に滞在し、30年余りにわたって日本のピアノ教育に貢献した。1944年、東京にて逝去(芸大)
外務省が「逝去か?」と書くのが裏付けられた。
ヘ.マリー・クレーマー
ソプラノ。自宅教授。東京生まれでアメリカンスクール卒業後、ハンブルグに留学。
名前はアメリカ人ぽい。
ト.ナデジタ・ローレンツ
ピアノ・ソプラノ。聖心女学院講師。ハンカ・ペッツオルト門下。
2 ドイツ国籍を剥奪され、日本において活躍する音楽家
イ.ヨゼフ・ローゼンストック 東京音楽学校在職無し?(クエスチョンマークは当時の外務省による)
芸大の史料に名前が載っていないことからも、同校教師でなかったことが確認できる。軽井沢で終戦。
ロ.レオ・シロタ 東京音楽学校
昭和6〜19(1931〜1944)年東京音楽学校の傭外国人教師をつとめ、東京音楽学校内外で演奏と教育に活躍(芸大)
軽井沢で終戦。
ハ.レオニード・クロイツァー 東京音楽学校
昭和13(1938)年、東京音楽学校にて教鞭をとるも、昭和17(1942)年にナチスに国籍を剥奪され、昭和(1944)年には公職追放、演奏活動も停止となり、昭和20(1945)年5月17日より終戦までは軟禁される(芸大)
軽井沢で終戦。
ニ.マルガレーテ・ネトケ・レーベ 東京音楽学校
大正13(1924)年、東京音楽学校に招かれ来日。東京音楽学校講師、宮城学院女子専門学校教師、自由学園教師、東京芸術大学講師を歴任。東京芸術大学退職時には「外国人名誉客員教授」の称号を与えられた(芸大)
軽井沢で終戦。
3 ドイツ国籍を有するも、ドイツ大使館としては何ら関知しないドイツ人音楽家
(ドイツとして好ましくないドイツ人と解釈できる)
イ.クラウス・プリングスハイム(半ユダヤ人)
昭和6(1931)年9月8日来日、東京音楽学校に着任した。昭和12(1937)年7月31日、契約満了につき退職。タイ、アメリカへ渡り音楽活動を続け、1972年12月7日、東京にて逝去(芸大)外務省の記録ではドイツ人で野尻湖で終戦。
ロ.ルドルフ・フェッチ(半ユダヤ人 同夫人はユダヤ人)
昭和16年(1941年)、宝塚歌劇で指揮をとっている。
終戦は神戸市灘区で迎えたか。
ハ.ヘルマン・ヴーハープフェニッヒ(ドイツ人 同夫人はユダヤ人)
昭和7(1932)年、ネトケ=レーヴェの後任として東京音楽学校に着任。昭和19(1944)年3月に契約期間満了につき一旦解雇されたが、昭和21(1946)年9月より再び雇い入れられた(芸大)
昭和18年(1943年)にヴーハープフェニッヒの妻がいわゆる「完全なユダヤ人」であると判明すると、ドイツ政府の介入により、東京音楽学校教授を解任されたという(ウィキペデイア)
4 芸大のリストに載るが、戦時下の外務省のリストに載らない音楽家
(ドイツ人ではないが、筆者が取り上げたい音楽家)
イ.ウィリー・フライ
1907年、ポーランドに生まれる。
昭和11(1936)年に来日し、東京音楽学校嘱託として多くの後進を指導。また、新交響楽団へのローゼンシュトック招請に協力し、彼の指揮によりベートーヴェン、ブラームスなど数々のヴァイオリン協奏曲を演奏した(芸大)
フライはドイツで学び、演奏し、ナチスを逃れて日本に来た。無国籍で箱根を追われ、終戦を軽井沢で迎えた。
アレキサンダー・モギレフスキー
1885年、ロシアのオデッサに生まれる。
和12〜19(1937〜44)年、昭和23〜24(1948〜49)年に東京音楽学校に在職。ヴァイオリン教育に携わるとともに、ロシア音楽を紹介した(芸大)
無国籍として軽井沢で終戦。
<まとめ>
ドイツ人音楽家の多くは東京音楽学校で教鞭をとっていたことが分かる。ドイツ人にとっては音楽の分野でもユダヤ人か否かが重要であった。そして戦争中は彼らの多くが軽井沢に疎開した。
こうしたドイツ人を中心とした音楽家が戦前、戦中、先に見てきたような芸大の歴史的建造物で教鞭をとったのかと考えると、感慨深い。
長文をお読みいただき、ありがとうございました。
以上
補足
その際に撮った写真から興味深いものを紹介する。
音楽学部正門横の門衛所。築年はネットを見る限りはっきりしていない様だ。
隣にあるコンパクトな建物は旧博物館動物園駅駅舎(1933年築)。京成電鉄本線の地下駅への入り口であった。
上野公園内の旧東京科学博物館本館。1931年の竣工。
旧東京科学博物館本館前のデコイチの展示もSLファンには嬉しい。
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