日本に長く暮らすドイツ人と話をした時の事である。
その方のお父様は戦前に日本に留学した。そして太平洋戦争が始まってしまうが、どうしても母国に帰りたくなり、1943年にドイツの艦艇に乗って本国を目指したという。興味があるならイレーネ(Irene)という船について調べると分かりますよ、との事であった。
戦時中にドイツに向かう方法は、ドイツ人にとっては潜水艦か封鎖突破船しかない。封鎖突破船とは聞きなれない言葉だが「戦時に敵国によって封鎖された国家または地域に対し、戦争遂行に必要な資源・需品・武器などを封鎖を破って輸送する船」の事である。
こうした危険極まりない艦船に、他に日本との連絡手段のないドイツでは、どうも民間人も乗り込んだようだ。知り合いのお父様は船客ではなく一応、主計係(経理担当)という役が割り当てられたらしい。
太平洋戦争中ドイツ海軍は、1942年から1944年にかけて、大西洋とインド洋の連合国の海上封鎖を突破して、日本が支配していた南洋からゴム、スズ、モリブデン等の戦略物資を、ドイツへ持ち帰るべく高速貨物船を派遣した。敵に見つからない様、船橋を低くした船であった。
「イレーネ」については日本語のサイトでは見つからないが、ドイツ語ではウィキペディアに書かれている。そこから抜粋し、コメントを加える。
可愛らしい名前のイレーネは元は「Silvaplana」(シルヴァプラーナはスイスの地名から?)という名のノルウェー船籍の船であったが、ドイツ軍に拿捕され、イレーネとなった。
1942年10月3日、ドイツ占領下のフランスのジロンドを出港し、11月28日にインドネシアのバタビアで途中停泊した後、1942年12月中旬に神戸港に到着した。
そして翌43年1月4日に神戸港をヨーロッパに向け出港した。ヴェント大尉の指揮の下、157人の乗組員が乗っていた。その中には42年11月30日、横浜港のドイツ艦艇(ウォカーマルク号他)の爆発事故で九死に一生を得た50名の乗組員もいた。筆者は彼らはみな箱根に疎開し、終戦を迎えたと思っていたが、すぐに本国を目指した海軍兵がいたことは新発見。そして知り合いのお父様の他にも民間人はいたのであろう。
毎年、横浜の根岸の外国人墓地では横浜港のドイツ艦艇の爆発事故で亡くなったドイツ兵の墓前祭が行われている。写真は2024年、挨拶をする筆者。
ドイツ海軍関係者が疎開した箱根の松坂屋本店。 関連ブログはこちら
イレーネはさらにシンガポールで、6,000トン以上の天然ゴム、キニーネなどの戦争に必要な物資を積み込んだ。
2月4日にシンガポールを出港し、ヨーロッパを目指し最も危険な水域に入る。3月初めには大回りして南アフリカの喜望峰を通過した。スエズ運河はイギリスの管理下で通過できないからだ。しかし連合国の無線探査はこの頃すでに、数隻の封鎖突破船が、欧州に向かっていることを掴んでいる。
敵に探知されないために無線を封鎖し、イレーネは無事に航海を続けたが4月9日、イギリス沿岸警備隊の航空機に偶然発見された。スペインのヴィーゴの西約375海里(700キロ)の地点であった。
その後イギリスの巡洋艦が接近し、国際法に則り船首に2発の威嚇射撃をすると、イレーネは船に火を放ち、バブルを開け、乗組員は整然と救命ボートに乗り込んだ。そしてイギリス艦は157名全員を救助した。
日本から危険な航海を続け、欧州大陸から275海里(500キロ)の地点で船を去らねばならないドイツ人の無念は、いかばかりであったろう。
しかしここで特記すべきは、乗組員の救助までは整然と行われたことである。イギリスはドイツの戦闘要員を確保し、資源がドイツで使用されることを防ぎ、船も沈んだことで、目的を達成した。一方人命は救助した。
なお当時イギリスの首相であったチャーチルは、悲惨な出来事の多い第二次世界大戦で、最も騎士道精神に則った戦いが行われたのは、アフリカのロンメル将軍との戦いである、という様なことを戦後書いている。
イギリス艦に救助されたドイツ兵士は、イギリスとカナダの捕虜収容所に送られ、そこで終戦を迎える。知り合いのお父様はカナダであった。そして戦後まもなくして再開したばかりの欧州航路を利用して、ドイツ船で再び日本を訪れる。そして筆者の知り合いが生まれた。
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