先の「日本郵船の旅はベルリンから始まった」の記事の中で次のように書いた。
「1939年6月12日
汽車はレアター駅(現ベルリン中央駅)から(深夜)1:06出発。U君、(ローマに向け)元気よく出発していった。日本油脂のK氏も一緒に出発した」
当時ベルリンからローマへの鉄道旅はどのくらい時間がかかったのであろうか?
上智大学の留学生として戦時下のドイツに向かった篠原正瑛は次のように記している。
「榛名丸は1939年12月15日に無事ナポリに着いた。そのまま汽車でローマに向かい、一泊する。
翌16日の夜、ローマ中央駅を発ってベルリンに向かった。ローマからベルリンまでは、急行で約26時間かかる。私たちは、少ない外貨を節約するために、寝台を使わず、2等の座席に座ったまま、丸1日以上の行程を頑張ることにした」
⇒現在ベルリンからローマまで鉄道を利用する人は少ないであろう。調べると一番速い列車で14時間、ただし直通はなくミュンヘンと、イタリアのヴェローナで乗り換えである。また料金的に魅力的なバスは直行があり19 時間 55分で移動距離は 1184 kmである。
当時はこの距離を26時間で走ったとすれば、平均時速は45キロである。鉄道はその間、時間的には画期的な進歩は遂げていないと言えようか。
篠原の回想は続く。
「私達を乗せた国際列車がイタリアとドイツの国境のブレンネル峠に着いたのが、12月17日の未明であった。ここは、もとはオーストリア領であったが、1938年3月におこなわれたドイツ・オーストリア合併によってドイツ領になったところである。
だから今はドイツの国境警察と税関によって、旅券と荷物の検査がおこなわれる。しかし日本人に対しては、どちらの検査も簡単な、形式的なものであった」
⇒ブレンネル峠は現在オーストリアのチロル州とイタリアのボルツァーノ自治県の間に位置する峠で、標高1375 メートルの高地である。後に連合国の反攻から逃れて、同峠を越えてイタリアからドイツに入った小野満春は
「今度は800キロの北上である。列車で越えた独伊の国境ブレンネル峠は、9月というのにもう銀世界であった」と厳しい気候を書いている。
再び篠原である。
「ブレンネル峠から30キロばかり走ると、インスブルックである。列車がインスブルック駅に着いたとき、ちょうど夜が明けかかって、紫紅色に染まった空にアルプスの山々がシルエットの様に、浮かび上がった。(中略)
私たちが乗った列車がベルリンのアンハルター駅に着いたのは、12月17日の夜おそくであった。駅には完全な灯火管制がしかれていて、構内のあちこちに憲兵が2人一組となって巡回する姿がみられた、戦時下のドイツの、ものものしい雰囲気をうかがいうことが出来た」
当時駐在していた方からいろいろ写真をいただいたが、列車が写るものは少ない。
そんな中、下は夜のツォー駅である。
海軍の阿部勝雄中将もほぼ同じ時期に、同じ国際列車を利用している。
「6月15日
午前7時10分、ローマ駅を出発した国際列車は噂に聞いたとおりの豪華な個室を備えていた。(略)
午後8時、独伊国境のブレンネル峠に着く。去年まではオーストリアの領土であったこの地方がアンシュルス(独墺併合)でドイツ領となったので、イタリアはドイツと直接国境を接する運命となった。両国国境の出入国手続きはすこぶる簡単だ。
ブレンネル峠を下るとチロル地方の中心都市インスブルックに着く。さらに北上してバイエルンの州都ミュンヘンに到着したのが午後11時、寝台車の夜は次第に寒くなってきた。長旅の目的地ベルリンが明朝に迫った。
6月16日
午前9時40分ベルリン.アンハルター駅に到着。士官学校のドイツ語教室で一緒だったE尉の出迎えを受ける」
⇒先の篠原が夜ローマを発ったの対し、阿部は朝7時に発っている。重要路線で1日に2往復していた様だ。
なお篠原と阿部がアンハルター駅に着いたと書くのに対し、冒頭ローマに向かったのはレアター駅(現ベルリン中央駅)と書いている。ベルリンには戦前6つのターミナル駅があったが、この違いについては今後の研究課題だ。
鉄道に関連し、前回紹介した商社駐在員の日記の次の記述も興味深い。
1939年2月10日 曇り
「朝8時35分 ツォー駅発、 パリ行きのFD-Zugでパリへ向かう。(2等車の自分のコンパートメントはパリに住む画家と一緒だった)
巴里の話を聞きながら食堂車で昼食をしていると、M君から電信あり。汽車が遅れたのでアーヘンで夜8時迄待ってと言う」
⇒食堂車に「電信」が届けられたとは、「電報」の事であろう。すでに列車内で電報の発信、受信のサービスを行っていたと考えられる。
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