今回はシリーズ6回目、最終回である。
ドイツが連合国に降伏し、日本のドイツ大使館も外交機能が失った中、大使館は日本政府に対し、居留民の世話係として、次の地区に代表を任命したと知らせた。
1 河口湖(ドイツ大使館が疎開)
2 仙石原
3 箱根(町)
4 強羅
5 軽井沢
ここで分かるのは箱根地区は3か所に代表がいたのに対し、ほぼ同数のドイツ人が疎開した軽井沢は一か所だったことだ。改めて地形を考えると、旧軽井沢は全体を徒歩で行き来できるのに対し、箱根の3地区は歩いての交流はほぼ不可能だ。逆に言えば軽井沢はまさに狭い土地に多くの外国人が疎開した。
そして箱根の3地区を見た場合、大きく分けると強羅地区(含む底倉地区)には外交官、新聞記者、銀行員が滞在し、箱根地区は見てきたように海軍兵士が中心であった。では今回見ていく仙石原はどうであったか?結論を先に述べるとほとんどの青少年、教師が疎開した地区と言える。
「神奈川県警察史」には「仙石原にはドイツ村が誕生した」とあるので、おそらく民間のドイツ人が一番多かったのは仙石原である。
仙石原のドイツ人の中心地は、仙石原ゴルフコースのクラブハウスであった。
1917年にパブリックコースのゴルフ場として日本で2番目に古いこのゴルフコースも、富士屋ホテルの経営であった。強羅地区、箱根町地区、仙石原とドイツ人の疎開場所は、ほぼ全てが富士屋ホテル系列であったと言える。
1944年2月12日富士屋ホテルの3代目社長、山口正造は東京の外務省で外交官の疎開に関する打合せを行い、その帰路脳溢血で倒れ亡くなる。(『消えた宿泊名簿』より)この時山口は実は富士屋ホテルに留まらず、グループ全体の宿泊施設の話をしたのではないかというのが筆者の推測だ。
現在のクラブハウス入口
「今も当時とクラブハウスの位置はあまり変わらない。背後には、うっそうとした樹木に覆われた斜面が続き、その木々の中に午六山荘は移築され建っていた」(『消えた宿泊名簿』より)というので、当時のクラブハウスの場所は同じと言える。
入り口横のプレート。古いものであろうか?
同コースのホームページなどによると次の様に書かれている。
「1937年にはクラブハウスの増築が行われ、付属ホテルができると共に、1939年には山梨県・明見村から、百余年を経たと言われる古式の百姓家を移築して、クラブハウスの一部に加えた。(午六山荘)
1944年にはクラブハウスがドイツ協会(日独文化協会?)に貸与された」
午六山荘は富士屋ホテル社長の山口正造が特別な賓客や親しい人をもてなすためのゲストハウスであった。
コースはオープンした1917年以降、後の昭和天皇が静養中によく訪れた。(左下がオリジナルの碑か)
さらにはクラブハウスをヒトラーユーゲント(1926年に設けられたドイツのナチス党内の青少年組織に端を発した学校外の放課後における地域の党青少年教化組織)の訓練のためドイツ協会に貸与していたことがあるとも記されている。
そして戦時中は13、14番ホールは開墾のため村に返還され、その他は(ヒトラーユーゲントの?)グライダー練習に使用されていたが、大部分はそのまま終戦まで残った。
これに対しドイツ側の証言には次のようなものがある。
「1944年夏に東京、大森のドイツ学園が疎開をするのに際し5年生以上は、箱根のヒトラー・ユーゲントの監督下の寄宿学校に移るようにナチ党より命じられた。しかし子供の両親と教師は反対し、選択肢を求めた。そして結果として軽井沢に移ったものが多かった」
こちらからもヒトラー・ユーゲントの学校がこのゴルフ場であることと一致する。
次いで外務省の資料によると次のようなことが分かる。
「ゴルフ場」を住所として、19人のドイツ人が終戦時に居住している。年齢は14歳から17歳である。また「ゴルフ学校」として家族を中心に19人の名前がある。領事館員がいて、さらにはイタリア人も3人いる。
二コラ・マングウ・ラウイチ パン屋
ギョワニ・ソラサ コック
キョウバタ・ソラサ (妻)
イタリア人は寮生に対する世話人と言えそうだ。
「ゴルフ場」は先に紹介したクラブハウスで間違いないであろう。もう一つの「ゴルフ学校」は横にある「練習場」ことを「学校」と呼んだと思われる。もしくはクラブハウスの一部になったという「午六山荘」のことか。
「練習場」の現在の建物
そして仙石原高原には8名ものドイツ人教師が疎開している。彼らは先のヒトラーユーゲントの学生の他、低学年の普通学校が開設され生徒を教えたものと思われる。ただし東京にヒトラーユーゲントの学校があったという話は聞いたことがない。つまり大森のドイツ人学校の幼年部を除いた部分をそう呼んだのだであろう。実際にドイツ人の10歳から18歳の若者は全員ヒトラーユーゲントへの加入が義務付けられていた。
先の松坂屋旅館の所で次の様に書いた。
「45年5月8日、箱根地区に散在していたドイツ将兵たちの代表は、仙石原の臨時ドイツ領事館に集合するように連絡があった。松坂旅館からはブロンフィールド中佐たち将校が出かけて行った。そこで伝えられたのはドイツ帝国の無条件降伏の知らせであった」
箱根各地区のドイツ人代表に、本国の降伏を伝えたのもこのゴルフ場のクラブハウスであろう。富士屋ホテルでは他のまだ日本と共に戦うタイの外交官などもいるので、具合が悪い。そして多くが集まれる場所としてこのクラブハウスが選ばれたと思われる。
終戦を迎えたドイツ人は多くがそのまま箱根に留まり、1947年に本国に引き揚げる。
以上が今回の調査旅行に基づく、「箱根のドイツ人の痕跡」である。なかなか当時のままのものには巡り合えなかったが、最後までお読みいただき感謝します。
(完)
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