天才ヴァイオリニストと呼ばれた諏訪根自子は1943年2月22日、ベルリンでゲッペルス宣伝相からバイオリンの名器ストラディバリウスの贈呈を受ける。日独の友好促進に努めたのがその理由であった。

根自子は戦乱の欧州で身を挺してこの名器を守り、日本に持ち帰った。そして迎えた記者に

これだけは命がけで大切にしてきました」と語った。

 

筆者はすでに「諏訪根自子 : 美貌のヴァイオリニストその劇的生涯 : 1920-2012」の書評の形で欧州での根自子の活躍の様子を書いた。今回は根自子が戦乱の欧州で、このストラディバリウスを命がけで守った様子を取り上げる。

 

当時三菱商事のイタリアに駐在した牧瀬祐次郎の妻セツ子さんの残した手記を遺族の方から見せていただき、そこに貴重な証言を見つけたのが本編を書くきっかけである。

 

1 パリからベルリンへ

 

伝記『美貌なれ昭和』(深田祐介作)には次のように述べられている。

1944年8月13日、在留邦人婦女子は(連合軍の迫るパリを脱出するため)、パリ東駅に集合。根自子も、前田ゆうや倉知(古沢)淑子たちとベルリン行きの軍用列車に乗り込む。列車には対空砲火器の高射砲や高射機関砲を搭載した貨物車両が連結されており、脱出行の前途多難を思わせた。

 

この軍用列車は両側の窓が全部ドアになっていたが、婦女子たちは、サイレンが鳴るとそのドアを開いて、高いステップから跳び降りて退避せねばならず、これがひと苦労であった。ドイツ兵が助けてくれて子供達、年寄りを先に降ろし、列車の下や、列車から離れた木陰に退避する。

「根自子さんの場合は、どんな時にもストラディヴァリウスを離さなかったから、まず私が汽車から跳び降りて、バイオリンを受け取って、それから根自子さんが跳び降りるという具合でしたね」と声楽家の倉知淑子は語る。

 

2 ベルリンからバードガスタインへ

 

ドイツの外務省からベルリンの日本人外交官の疎開先として指定されたのは、オーストリアの保養地、バート・ガスタインであった。

1945年3月に大島大使夫人、豊(トヨ)ら、婦女子を中心にした疎開組がベルリンを離れるが、その中に根自子はいた。豊の私設秘書という名目で民間人でありながら、例外的に加わった。

その際根自子のバイオリンを運んだのは木本三郎官補であった。大島大使より「大事に持ち運べ」と命じられたという。

 

3 牧瀬セツ子


ドイツの敗戦でアメリカ軍の捕らわれの身となったイタリア在住民間人はフランス、ル アーブルの港の飛行場に移送される。牧瀬一家はその中にいた。ここでローマで一緒だった大使館の人たち、光延海軍武官家族の方たちと一緒になる。以下牧瀬の手記からである。


フランス、ドイツ、イタリアのディプロマの人達や新聞社の人達と大型トラック12台、ジープ3台と運送車の大部隊で3,40分くらい走って立派なシャトーに着いた。牧瀬らケーニッヒシュタイン組はアメリカ軍の手から国務省の手に移されたとかで、すっかり待遇が変わった。部屋もベッドもまともですっかり嬉しくなる。


このシャトーは「ベネディクチン」のラム酒を作る社長の別荘とか、高いところから海が見え、カモメも飛んでくる。総勢百数十名位らしい。このシャトーで5日間過ごす。最後の晩は音楽会(内本実さん、近衛秀麿さん等)、子供達もピアノを弾いたりして楽しんだ。

シャトーを出発、ル・アーブルの港に向かった。港の桟橋は赤さびた鉄板だった。

サンタローザ号という名の船であった。トラックから降りた我々は、まず大使館の人達が呼ばれて次々乗船する。そのうち新聞社の小野さん、御夫人、お子様方と呼ばれ、我々も乗船する。

 

船室は諏訪根自子さんと同じ部屋だった。二段ベッドで根自子さんが上、(娘の)晴子が下になる。六人部屋だった。大島大使が根自子さんの所に来られる。
(中略)
船は大シケで大波の上で狂ったように上下する。よろよろ狭い廊下をトイレに通う。スワネジさんは大事なバイオリン名器、ストラディヴァリウスを命より大切に毛皮のオーバーの中に包み込んで持ち歩いている。

 

奇しくも、牧瀬セツ子の眼には根自子が「命より大切な」ストラディヴァリウスを守っている姿が写った。

こうして次はアメリカで収容され、日本に戻ったのは1945年12月7日の夕刻であった。

 

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