軽井沢の別荘の門柱は、四角く石を積み上げたものがよく見られる。
次の八田別荘の改修前の門柱がその例だ。
建物は新しくても門柱のみ古そうに見えるのもある。また建物はなくても門柱は残っているというケースも時々見られる。「歴史は細部に宿る」のではないが、そんな門柱から歴史を手繰ってみた。
軽井沢の歴史の本によく出てくるのが、二手橋の先にあった英国公使館別荘だ。少し台の上に乗るように、視界の開けた場所に公使館の建物は建っていた。ハウスナンバーは800番であった。建てられたのは1890年、「軽井沢の父」と呼ばれるカナダ生まれの宣教師アレキサンダー・クロフト・ショー氏が初めてこの地を訪れたのは1886年、その4年後のことだ。その後1923年に野澤源次郎の長女林満寿に移転し、1939年頃まで毎年使われた。
ここは現在は建物はなく荒地状態だが、「800」と書かれた門柱のみが残っている。地形もだいぶ変わっているようだ。それでも昔を偲ぶには十分だ。
門柱の名前はどうも「石」という字のみが読める。するとこの門も実際は戦後のものか。
鹿島の森の2143番は伊東治正伯爵の別荘で翠雨荘と呼ばれた。戦争も劣勢になってきた1943年8月、この別荘(翠雨荘)に政治家たちが集って「軽井沢会談」が行われた。軍部が勢力を持つこの頃、政治家たちは憲兵に悟られないように庭から庭へと歩いて翠雨荘に集まり、和平への道を話し合ったという。
終戦直後は万平ホテルと並んでダンスパーティーがしばしば開かれた。戦後はアイゼンベルクの所有となる。戦後大富豪となるユダヤ人のアイゼンベルクは日本人を妻とし、戦時中はユダヤ人にも拘らず、ドイツ国籍をはく奪されずに軽井沢の隣の御代田に疎開した。
ここも建物はないが、門柱の下の札には「ショール エヌ アイゼンベルク」と書いてあるのが読める。現代史を感じることが出来る場所だ。
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