<訪問記>
いささか旧聞であるが2015年8月22日、旧スイス公使館深山荘の一般公開と、それに関するシンポジウムが開催されたので、観光客でにぎわう軽井沢を訪問した。

深山荘(みやまそうと読む)の案内板
建物は軽井沢町の有形文化財(建造物)

公開された内部。 元々は「貸別荘アパートメント」で、内部はいたって質素である。どこが公使の部屋であったかもわからず、当時の調度品などもない。これでは人を呼ぶ魅力は少ないか。

終戦直後の写真 上の現在の写真とは反対側から撮っている。

上の写真の右下に見られる「スイス公使館」の立札。係の人に聞いたら、「当時のもの」との返事であったが、見たところそれほど古くなく、レプリカか?

深山荘の間取り図。アパート形式で公使館に向いている作りとはと思えない。真ん中にホールがあり、左に洋室(5室)と和室(10室)が広がる。終戦時ここ(2503番)にはスペイン人外交官ひとりが住んでいたことになっている。一方スイスの外交官は周辺に住んでいたので洋室、和室とも事務室として使われたのであろう。(後述)

向かいの旧三笠ホテル。ここは観光客が多いが、当時は外務省の出張所があった。

午後のシンポジウム。(詳細は省略)
スイス公使館は、軽井沢に疎開している西洋を主体とする外国人(1500人)を実質的な代表して、食料品の確保など、ここの外務省と折衝した。第2次世界大戦中も、スイスを代表とする中立国の外交官と少数の民間人は、日本に滞在していた。しかし空襲の激化する中、19944年8月ごろにスイスは公使館を東京から、軽井沢の別荘に疎開させた。そしてそこで終戦を迎えた。
その建物を軽井沢町が買い取り、内部を一般公開した。1日で400人の訪問者があったとのことである。軽井沢町の人の話によれば、町は戦後東京電機大学の寮になっていたものを買い取ったので、スイス公使館時代の調度品はないとのこと、残念。
<スイス公使館になる前の深山荘>
1944年9月の外事月報によると、それまで深山荘にはフィンランド人が2名住んでいた。
ヘルマン・オウノアルビン (41歳 船員)
ミシン・へロット (26歳 フンランド公使館雑役)
オウノアルビンは自分の乗る船が座礁し、軽井沢に疎開していたのであった。おそらくへロットもそうであろう。(さらに別の別荘のもう1名も)
アルメニア人のルシール・アプカーは横浜から軽井沢に移り、後に以下のように書いている。
「フィンランド人の水兵グループが近くに住んでいた。彼らの船が座礁したからだ。一人がひどい胃潰瘍だと言ってきたので、父が日本の漢方薬を渡したら彼はすごく喜んだ。彼らはお礼に、(暖房用の)薪集めをしてくれた。」(『Shibaraku』 Lucille Apcarより 原文英語)
フィンランドはちょうどこの年の9月20日に日本との国交を断絶し、フィンランド人は全て本国に引き揚げた。こうして空きの出た深山荘に、スイス公使館が入ったのであろうか?
<前田郷の外国人>
深山荘は前田栄次郎というビジネスマンが開いた別荘地前田郷内にあった。前田郷のハウスナンバーは2500番代が与えられた様だ。そこには外務省の出張所が近いせいか中立国の外交官が多く住んだ。
スペインの公使サンチャゴ・メンデス・デヴィゴは2531番、同書記プラナス家が2515番、ポルトガル公使と二等書記官の家族が2501番だ。公使が不在のデンマークでは、書記一家が2524番だ。
スイス外交官家族は2504番、2511番、2522番、2534番、2542番、2543番、2554番と多い。(トップであるゴルジェ公使は1190番の徳川候の別荘に住んだ)
このように前田郷は深山荘があった場所としてのみではなく、中立国外交官家族の疎開場所であったといえる。
以上
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