昨年、表題の本を出版したが(こちら)、今回新たな香島丸乗船者の記録が見つかった。非常に詳細で興味深い記録だ。
さらに船内の記念写真も入手したので紹介する(2022年7月3日)
岩瀬英子は旧姓松平、父親の松平斉光(なりみつ)男爵は津山松平家の出身で、母親直子は徳川昭武(慶喜の弟)の三女であった。斉光は1932年からソルボンヌ大学で学んでいた。
著書『フランスの少女時代』の中で英子は、1939年9月1日の欧州戦争勃発に伴う鹿島丸での引き揚げ航海の様子を詳しく書き記している。拙著に於いてこの時の邦人の避難客は「全部で180名、ボルドーから乗ったのは中村光夫を含む142名、英国からが38名で、そのうち子供が50名で、はしゃぎまわっていた」(87ページ)と書いた。その子供の内の一人の体験談だが、新しい”発見”を中心、筆者の解釈を加えて書いていく。
母直子と英子が南フランスのボルドーで鹿島丸に乗り移っても、なかなか出航しない。パリからの引き揚げ者を収容するため、鹿島丸はしばらく停泊した。英子はその間10日ほど午後は船を降り、パリに戻ることになっている父斉光と共にボルドー市内で過ごす。
9月25日、いよいよ出航となる。午後1時過ぎ、乗船客全員が集められ、ライフ・ジャケット着用の訓練を行った。その後ボートデッキに上がり、各自に割り当てられた救命ボートの位置を確認した。英子たちの乗るべきボートは第2号ボートであった。いかに危険を伴う航海であったかが分かる。
船が岸壁を離れる際は、ボーイたちが船の上下にいる人々に色とりどりの沢山の紙テープを配って歩いた。危機の迫る中での引き揚げ船だが、紙テープの舞う出航光景は繰り広げられた。
香島丸船上での記念撮影。普通の航海では正装した一等船客のみで写真を撮ったが、引き揚げ船なのですべての子供と母親が写真に収まったようだ。写真の説明には「日本へ帰国する第一便 9・21/22」と書かれている。
船内で子ども全員は寄宿舎の食堂の様な雰囲気の別室でにぎやかな食事を楽しんだ。規則では12歳以上の子供は大食堂に出られたが、そうした大きな子供も別室で一緒に食事した。
子どもたちが自主的に決めたルールは
7時半 デッキでラジオ体操
9時 朝食。その後各自部屋で昼食まで勉強
2時半 デッキでの遊び時間。デッキゴルフ、縄跳びなど
6時 夕食。夕食後はロビーでトランプなど静かに遊ぶ
8時半 就寝
であった。そしてこれは航海最後の日までほぼ守られる。
次の寄港地リバプールではイギリスからの引き揚げ日本人が集まるまで数日間停泊し、英子親子はその間ホテルに泊まる。下船するときは、タラップの下にイギリス人の役人が立っていて、一人ひとりに封印した包みを渡した。簡単なガスマスクだった。イギリス滞在中は常にこれを持ち歩き、使用しなかった時は返還してもらうので、むやみに開封しないようにとのお達しだった。ドイツ空軍の空襲を想定した予防措置であった。
ボルドーを出てから2週間くらい過ぎたころから、船では船員たちが来る日も来る日も、船底の倉庫から砂を出しては、これをシャベルで海に捨てるという作業を続けた。そして10月19日にニューヨークの港に入った時は、船は海中に沈んでいるはずの赤い錆止めを塗った横腹がむき出しになってしまっていた。
ここで砂の代わりに積み込んだのは鉄くずであった。大人たちは鉄くずといっていたが、実際は缶詰の空き缶を石油缶大の四角い塊に押しつぶしたものであった。そして詰めるだけの荷物を積むと、船は再び正規の位置まで沈んだ。
鹿島丸は貨客船である。ボルドーからニューヨークまでは貨物がなく、空の船倉では重心が高くなり船の揺れがひどいので、重しとして砂を積んだ。その後ニューヨークで積んだ「鉄くず」はれっきとした船荷で、当時の日本で必要とされたのであろう。
ニューヨークで下船して高層ビル群を見て驚くのは、同じ時期に靖国丸で引き揚げた加藤眞一郎さんらの体験と同じだ。(拙著136ページ)
パナマ運河を抜け、ロスアンジェルスを過ぎてからのある晴れた日、何も見えないはずの海の向こうに黒いものが目に入った。よく見るとそれは船で、黒い横腹にくっきりと日の丸が描かれていた。船はほぼ同じタイミングに同じルートで、欧州から日本に向かう箱根丸であった。ニューヨーク到着は鹿島丸より2日遅い、10月21日であった。遠く離れていても甲板に出て手を振っている人の姿はよく見えていて、英子らもこちらの船から夢中で手を振った。
英独仏が戦争状態に入った中、依然中立を保つ日本の船は誤爆を避けるために、船腹とデッキの上に日の丸を描いていた。鹿島丸の写真を見ると、船腹の日の丸は前部と後部にふたつ描かれ、拙著で紹介した靖国丸の中央部の大きな日の丸と比べるとかなり小ぶりの印象だ。
船客の子供はフランス組が大多数で、リバプールから乗船したのは2家族の子供だけであった。フランス組の子供はフランス語を主として話し、イギリス組とは航海後半まで打ち解けないままであった。
この状態を憂慮した大人たちは、一計を案じて一種の学芸会を企画した。子供たちは英仏組が一緒になって日本語劇の練習をした。発表の日はボーイがデッキの幅いっぱいに幕を張ってくれて、その片側を舞台、反対側を客席とした。客席は母親たちと暇を持て余した大人たちで、熱演し終わると大人たちから大きな拍手が起こった。
また歌も作ろうとのことで、秋吉夫人の作詞作曲で出来あがった。その一番は以下の歌詞だ。
鹿島丸
戦乱の花の都を 逃れ来た
我らを乗せて 船出せり
輝くわれらの 鹿島丸
潜航艇の 危険を冒し
嵐のただ中 突っ切って
つつがなく つつがなく 渡った大西洋
鹿島丸 鹿島丸 万々歳
船が太平洋の真ん中に達したころ、ドン!という大きな音と共に、船が一瞬飛び上がった。鯨とぶつかったのであった。大きな鯨であったので、スクリューがひとつ破損してしまった。その結果鹿島丸は4つのうち、3つのスクリューだけで残りの航海を続けた。
ついに12月4日、無事に横浜に着いた。この時はガタガタするほどの寒さだった。3日前までは夏服でいたことなど、とても考えられたものではなかった。そしてこうして2か月と9日の航海は終わったのであった。
なお父親である斎光も翌年6月に白山丸で引き揚げる。
この本を教えてくださったFさんに感謝します。
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