<50 セルゲ・ペトロフ>
 
戦時中も中区鷲山に住んだペトロフ(Serge P. Petroff)はその後東京、軽井沢と移り終戦を迎える。終戦から三週間ほどしかたっていない、1945年9月2日に弟と共に軽井沢を発ち横浜に向かう。
 
横浜はブラフ(山手地区)と港沿いの建物を残し破壊されていた。セルゲは港のそばで最初のアメリカ兵に出会った。そしてMP(憲兵)に話しかけた。

彼は我々をアメリカ人の抑留者と考えたようだった。そしてすぐに赤十字に出頭しろといった。赤十字の施設は大きな倉庫で、海外の赤十字から届いた品物が山積みであった。おそらくスイス赤十字によって日本に渡されたが、連合国の捕虜に配られなかったものだ。

倉庫で野戦指揮官ロジャー・レーザーズ(Roger K. Leathers)に会ったが、彼も我々をアメリカ人と勘違いした。ペトレフが自分が誰であるかを説明すると、日本語が話せるか聞いてきた。はいと答えると、彼は船荷を運ぶ日本人労働者を探す仕事を手伝わないかと尋ねた。こうしておいしい食事を取ることができる、アメリカ軍の職員となった。(Life Journeyより)
 
今の山下公園のあたりで米兵と会ったのであろう。

<51 アイザック・シャピロ>
 
先に紹介したコンスタンティン・シャピロ(26番)の子供アイザック・シャピロ(Isaac Shapiro)は8月末には東京に向かっている。
 
彼はマッカーサーが横浜に到着した翌日の8月31日、港に立っていると20歳後半の背の高いアメリカ兵がにこやかに話しかけて来た。ケリー大尉と名乗り
「日本語が出来ますか?」と聞くので
「はい」と答えると
「じゃあ助けてくれ。自分はスクールバスを徴発したが、(日本人の)運転手と会話が出来ない。一緒に来て彼に伝えてくれ。自分の任務は高級将校のための宿舎を見つけることだ。最初は第8軍のアイケルバーガー中将のための適当な宿舎を確保することだ。」と言われた。
こうして彼も米軍のために働くこととなる。(Edokkoより)
 
また後に「六本木の赤ひげ先生」と呼ばれるエフゲニー・ニコラエヴィチ・アクショーノフは戦争中も東京にとどまったが、マッカーサーが来日するころ同様に横浜港に出かけ、そのまま米軍で働くことができたという。
 
このように白系ロシア人で無国籍の若者はアメリカ軍の進駐する新しい時代に、大いに期待したのであろう。そして進駐してきたアメリカ軍は、それに応えるかのように、彼らをその場で雇い入れた。
 

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