<序>

筆者は書評「諏訪根自子 : 美貌のヴァイオリニストその劇的生涯 : 1920-2012」の中で、彼女に関しての考察を行った。
そして欧州滞在中の最大イベントともいえる、1943年2月22日、根自子がゲッペルス宣伝相からストラディヴァリウスの贈呈を受けた経緯について、次のように書いた。

贈呈を伝える当時の朝日新聞は
「昨年12月来独以来ベルリンその他各地の音楽会あるいはラジオ、あるいは慰問音楽会においてその天才的演奏により」と書いており、これが為の贈呈と言われている。それにしても前年の暮れにドイツ軍慰問コンサートを行い、2月に贈呈とは、ナチス組織の意思決定の早さゆえか?
 
<慰問公演>

その後、筆者は同じく朝日新聞から、この頃の根自子に関し、いくつかの記事を見つけた。
1942年12月12日の紙面にはまず、 
「12月14日、ベルリンでのデビューは各方面から期待されている。」とある。ここからこの日が根自子のベルリンでの初演奏であったことが分かる。
その記事は次いで

「提琴家(ヴァイオリニスト)諏訪根自子嬢は日独協会後援のもとに14日夜、ザールランド街のオイローパ・ハウス音楽堂で独奏会を催し、ブルックやバッハの小品を演奏し、喝采を博した。同嬢はさらに15日午後3時から日本大使館で催される、独軍傷痍軍人慰問会で演奏する予定。」と記す。
コンサートの後援が日独協会であるとすると、パリからベルリンに根自子を呼んだのは、幾人かの駐在邦人が「自分だ」と戦後語っているが、実は日独協会と推測される。
そしてこの慰問演奏会については17日「大島大使 将兵を慰問」の見出しで

「大島駐独大使は15日午後、独軍傷病兵約200名を(日本大使館に)招待して、慰問レセプションを催した。
大島大使の挨拶に次いで諏訪根自子嬢のヴァイオリン独奏、田中路子夫人の独唱があり、独軍勇士たちは、将軍大使(軍人出身の大島大使のことー筆者)を囲んで、武勇談に花を咲かせた。」と報じた。

根自子がストラディヴァリウスの贈呈を受ける理由に、冒頭の記事では慰問音楽会での貢献が書かれている。慰問音楽会という言葉から、根自子はどこか東部戦線に出掛けて、演奏を行ったのかと筆者はこれまで考えていたが、実はこの大使館での慰問会を指しているようだ。

200名の傷病兵とは、全傷病者の中で見ればごく少数で、実際の慰問効果はほとんどないであろう。やはり日独友好の宣伝効果を狙ったものである。

「ベルリンその他各地の音楽会あるいはラジオ」に関して言えば、ベルリンのは分かったが、それ以外の都市でも、短い間に日独協会によって組まれた演奏会を行い、またラジオにも出演したのであろう。その情報は今後の調査課題である。

そして翌年2月のストラディヴァリウスの贈呈となるのだが、日独協会のドイツ側はすでに贈呈の提案を宣伝相と話をつけて、根自子をベルリンに呼んだのかもしれない。

深田祐介の「美貌なれ昭和」では、ベルリン駐在の大谷修陸軍少将の日記が引用されている。
1943年1月1日「正午より大使館に在留邦人参集。(中略)諏訪根自子嬢来会しあり。先日の奮闘を謝す。」という原文に続き、

「ドイツ空軍関係の知人から頼まれ、根自子に慰問演奏会を依頼し、繰り返しアンコールの嵐を呼んで、彼女に”奮闘“してもらったという意味にとれるが」と深田は想像した。しかし大谷は、この大使館での慰問会を感謝したと考えて間違いない。

ニューヨークタイムズ ネット版2012年9月21日付けに、根自子と眼帯姿のドイツ兵が語り合う宣伝臭い写真があるが、この時撮られたものであろう。(こちらを参照)
勿論本人はこうしたことを希望したはずはないが、日独友好、ストラディヴァリウス贈呈という話の進む中では、抵抗出来なかったはずである。
 
<アサヒグラフの根自子>

根自子が大島大使らとアメリカを経由して、浦賀港に戻ったのは1945年12月6日である。翌日の朝日新聞には早速根自子の帰国が報じられる。

そして翌1946年1月5日発行のアサヒグラフには根自子の写真が大きく出ている。敗戦から5か月も経たないのに、こうしたグラビア誌が発行されていたことに驚く。

アサヒグラフの記者は次のような印象を書いている。
「粗末な外套に頭にネットを巻いた諏訪根自子さんがしょんぼりといた。出迎えの人も来ていない。天才少女として楽壇にデビューした時の明哲なまなざしは確かに残っているが、かなり疲れ切った感じだ。」

筆者には終戦直後としては立派な服装で、たしかに目つきもしっかりしている印象の写真である。
そこで根自子は次のようなことを語っている。
1 演奏会はパリでは3回致しましたが、ドイツに移りましてからは出来ませんでした。
  また「ドイツでは演奏会どころではなかった」と新聞紙上には載っている。
2 米国に抑留中は大島大使夫人の主催で、お仲間の皆様をお慰めするために、近衛先生の伴奏でいたしましたけれど。

根自子はドイツで演奏会は行っていないと言う。”慰問公演”を行ったことは決して触れたくない話題であった。
(2015年12月20日)
 
<高松宮日記の諏訪根自子>

戦時中、海軍に勤務した皇族、高松宮宣仁親王が残した「高松宮日記」には、終戦直後に根自子の名前が何度か登場する。
1946年10月8日 
「それより帝劇で17時より諏訪根自子ヴァイオリン(を聴く)」
根自子の戦後初の帰国特別演奏会が10月3日帝劇で行われ、18日は「帝劇芸術祭」となっている。それを高松宮は聞きに行ったのであった。GHQ本部の置かれた第一生命ビルの隣の帝劇も、空襲を逃れたようだ。

さらに1947年9月17日
16時より古橋(広之進)を招いての会が催され、諏訪根自子、原千恵子、渋沢、川添の名前がある。古橋は「フジヤマのトビウオ」とアメリカの新聞に書かれた競泳の選手である。
(2016年10月20日 追加)
諏訪根自子のウィーンでのコンサート(ウィーンの新聞から)

<序>

筆者は以前に発表した書評「諏訪根自子 : 美貌のヴァイオリニストその劇的生涯 : 1920-2012」の中で、独自に調査した諏訪根自子の欧州での活躍についても述べた中で、
「1943年10月21日のベルリンの新聞にコンサート評が出ている。この時は大使館の避難所ボイツェンブルク城に居住したようだ。そしてまたパリに戻り1944年8月にそのパリを引き揚げる。パリとの行き来に関し、詳しい足取りが分かる資料の発見が望まれる。」と書いた。根自子がベルリンのコンサートからパリを引き揚げるまで、史料のない、いわば空白の10か月があった。

本日はそこを埋める史料が見つかったので紹介する。見つけたのはオーストリア、国立図書館のサイトである。ここでは1800年代後半から終戦の1945年まで、ウィーンを中心に40以上の新聞がネットで閲覧できる。新聞の見出しだけではなく全文検索が可能なので、それこそ片隅の記事に”Suwa Nejiko”という文字があれば引っかかる按配である。
図書館の検索サイトのリンクはこちら
 
<ウィーン交響楽団との共演>

検索結果よると1943年10月16日のウィーンの日刊紙に、「独日協会 ウィーン支部(主催の)コンサート」の見出しで、
10月26日 
演奏 ウィーン交響楽団 
指揮 ヴァイスバッハGMD(音楽総監督)
ソリスト 諏訪根自子
曲目: シューマン Overture Genoveva
    モーツアルト バイオリン協奏曲
    ブラームス ブラームス交響曲第一番
という短い紹介記事がある。このウィーン交響楽団とのコンサートの日付は,筆者の調べた限りでは、これまで書かれていない。

10月19日、20日とベルリンでクナッパーブッシュ指揮のベルリンフィルと共演を行い、終わったその足でウィーンに向い、ウィーン交響楽団と共演を行ったことになる。

10月24日には再び公演の知らせが同紙に載るが、そこには
「宣伝大臣からストラディヴァリウスを贈られた諏訪根自子」と言う書き方がされている。これは当時も大きな謳い文句であった。

またナチ党のウィーン総督、シーラッハーの組織する「戦時冬季救済活動」の一環のコンサートとある。厳しい冬に恵まれない人を助けるためのナチ党の取り組みで、ウィーンのオーケストラもこういう名目がないと、演奏会は催せなかったのであろう。

前年12月のベルリンの慰問コンサートでも登場したが、日本側の主催者は「独日協会」(日本側からすると日独協会)であった。ベルリンの日本大使館の文化部に勤務した大賀小四郎が、根自子のコンサートに奔走したという事なので、彼が日独協会の日本側代表であったのであろうか?

余談であるが、後年根自子の夫となる大賀小四郎は、ベルリンの日本大使館、報道担当官として「新しい中国」(Das neue China)という声明を1943年7月12日に発表し、それをウィーンの新聞が紹介している。ドイツ語の腕に覚えのある方は、こちらからお読みください。

そしてコンサート後の10月28日、ローランド・テンシェルト博士(Roland Tenscherth)のコンサート評が紙面に載る。
諏訪根自子について「5歳から音楽を始め、8歳で最初のコンサートを成功させた」と生い立ちから紹介し、

「ゲッペルスからストラディヴァリウスを贈られ、芸術家としての最高の栄誉を受けた」としている。そしてコンサートについては
「日本の若い女性(諏訪根自子のこと)は、聴衆から嵐のような祝福を受けた。」と絶賛している。
なおこのコンサートに関しては
「手放しの賛辞というわけにはいかず、ゲッペルスから贈られた楽器に対して嫌悪の反応も見られたという」と、萩谷由喜子は冒頭に挙げた本に書いている。おそらく根自子本人、または近親者から聞いたものであろうが、当時の言論統制下の新聞よりは、こちらが事実に近いのであろうか?
 
<ウィーン再び>

1944年5月15日、モーツアルトザールでまた独日協会ウィーン支部主催の「バイオリンの夕べ」が開かれる。バイオリンが諏訪根自子、ピアノ伴奏はエゴン・コンラート博士(Egon Kornrath)であった。そして5月19日にはフリッツ・スコルツェニー(Fritz Skorzeny)の評が新聞紙上に載る。

この根自子のコンサート自体、まだ紹介されていないようだ。1944年5月といえば、ドイツ主要都市への空爆の激しさも増していたが、当時ウィーンに留学していた西村ソノによると、同年末位まで、クラッシック音楽のコンサートが行われたという。

この時にウィーンでコンサートを開いたとすると、根自子はベルリンから行ったことはほぼ間違いない。1943年秋のウィーンフィルとの共演以降にいったんパリに行き、またベルリンに戻ったのであろうか?それともずっと留まっていたのか?

そして今回のコンサートのすぐ後、5月末にはパリに戻ったはずだ。6月6月、フランスのノルマンディに連合軍が上陸する。それ以降に根自子がフランスに行く事は、危険すぎてありえない。また連合国がパリを開放する直前の8月12日にパリを発ち、ベルリンに逃げ戻った時の苦労談は、すでに何度も紹介された。

深田祐介は「美貌名で昭和」の中で
「この名器(ストラディヴァリウス)を携えて、根自子はフランスとドイツの間を足しげく往来する。根自子は生活の本拠は最後まで、パリのカメンスキーもとに置いていたのであった。」と書く。
「足しげく往来」が事実とすると、ゲッペルスからストラディヴァリウスを贈られた1943年2月22日以降、どういうタイミングでパリに戻り、向こうで何をしていたのかは、依然良く見えない。筆者の根自子探求は続く。
(2016年5月22日)
 
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