1941年9月19日の読売新聞神奈川版に「晴れて日本人 一家四人揃って帰化。ハマッ子ドイツ人」という見出しの記事が出る。

 

帰化が認められたのは中区鷲山91番地のドイツ人ウィルヘルム・フエレン(32)とメリ(26)夫妻と、ふたりの子供だった。鷲山は白系ロシア人を中心に外国人が多く住んだ地区だ。

 

 ウィルヘルムは山下町24番地(互楽荘アパート内)でパン・酵母・紅茶の販売を行うスタンダード・ブランズ・エンヤ・インコーポレーテッドの支配人であった。日本参戦前後、外国人が減り、物資も欠乏する中、このウィルヘルムの店の他に、元町のメッツガーのデリカテッセン、弁天通のミュラーのジャーマン・ベーカリー、日本大通りのウィルリッヒのハンザーバーなどのドイツ人による飲食店が、なおも横浜港のそばにあったことになる。 

 

ウィルヘルムはセント・ジョセフ・カレッジを卒業後、5年間も本格的に日本語を勉強して、日本語はドイツ語より上手いくらいであった。母親「あさフエレン」はドイツ人と結婚したが死別後、日本国籍に戻っていた。つまりウィルヘルムは日独のハーフであった。

 

妻のマリも「日本人の血を受けている」と言うのでハーフであろう。写真を見ても西洋人の顔立ちだ。同じような生い立ちのふたりゆえ、結婚に結び付いたのであろう。

 

帰化することでこれまで厄介だった資産報告、滞在許可願いが不要になるという。感想は?と聞かれて
「日本に生まれ日本で育ち、ここで生活している以上祖国も同じですからね。」と冷静に答えた。 友人は帰化したら苗字を「笛連」にしたらどうだと言ったという。実際は何という苗字になったのであろうか?

 

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