1938年1月23日の読売新聞神奈川版に次の見出しが出る。
「霊峰仰ぐ我が誇り
私は立派な日本人よロシア生まれ 霧島エリ子嬢」
次いで本文にはこうある。
私は立派な日本人よロシア生まれ 霧島エリ子嬢」
次いで本文にはこうある。
「エリアナ・パヴロワ嬢は赤軍に追われ日本に亡命してから13年、今では名も霧島エリ子と呼んで帰化日本人となった優しい舞姫だ。七里ヶ浜の砂丘に妹ナデジタ嬢(日本名なでしこ)と母ナリヤさんと、3人で幸福な日をおくっている。」
エリアナ・パヴロワは1927年、鎌倉の七里ガ浜に日本初のバレエのけいこ場を開設するが、1941年日本軍慰問先の南京で死亡する。日本人への帰化は日本でバレエを続けるため、半ば強制されたものであったという。そんなパヴロワの横浜との関係を探ってみた。
七里ガ浜のバレエスクールのあった建物。(当時のままではないと思われる)
まずは1935年8月11日の読売新聞神奈川版の記事だ。
「4日で流線型の上達 本牧小学校5年佐久間のぶ子(12)さん
「4日で流線型の上達 本牧小学校5年佐久間のぶ子(12)さん
約3ヶ月前、中区本牧鷲山(鷺山?)14ギルドさん方へ出張教授していた米人ガーネッツさんの懇望によって(のぶ子さんは)4日ほど通ったところ、ロシアの舞踏家エリアナ・パヴロワさんが偶然立ち寄り、のぶ子さんの舞踏を見て”何年位やりました、是非私の所へお出になりませんか”と驚き、かつ懇望されたそうです。」
ここではパヴロワが本牧の鷲山を訪問している。ちなみに本牧の鷲山には白系ロシア人が多く暮らしていた。
ここではパヴロワが本牧の鷲山を訪問している。ちなみに本牧の鷲山には白系ロシア人が多く暮らしていた。
パヴロワは、その前年の1934年1月、横浜にも稽古場を開いた。かつて住んだ山手の一角であるという。
「踊り子としてではなく、いまはバレエ教師として生きる覚悟だった。東京で2日、横浜で2日、そして七里ヶ浜でも2日のスケジュールはとても休んでいられるスケジュールではなかった。」
「踊り子としてではなく、いまはバレエ教師として生きる覚悟だった。東京で2日、横浜で2日、そして七里ヶ浜でも2日のスケジュールはとても休んでいられるスケジュールではなかった。」
「1938年11月22日、エレーナは、横浜山手の稽古場にいた。
夜9時今日最後の弟子が帰った。忙しさから解放されてほっとすると、やはり寂寥感に襲われる。(中略)稽古場の窓から、船のあかりが見える。」(『瀕死の白鳥』より)
夜9時今日最後の弟子が帰った。忙しさから解放されてほっとすると、やはり寂寥感に襲われる。(中略)稽古場の窓から、船のあかりが見える。」(『瀕死の白鳥』より)
山手の稽古場はどこにあったのだろう?”船のあかりが見える”場所と言うとかなり限られる。
これは山手にあることを象徴的に書いたのか、それとも実際に見えたのか?また偶然か、この日は冒頭の読売新聞掲載の前日になる。
パヴロワは母も妹と共に、外人墓地に眠る。
建物の前には「日本バレエ発祥の地」というプレートがある。



