ゴットフリートの両親はドイツを逃れ、1934年1月靖国丸で横浜に着く。父ヨーン・パーシュの祖父はユダヤ人であった上、母マリア・テレーゼは当時反ナチの活動家であった。その一方で彼女の父親は、ワイマール共和国最後の陸軍総司令官ハンマーシュタインという高貴な家柄であった。
夫妻が横浜に向かう途上で出会ったのは、当時横浜正金銀行ベルリン支店に勤務し、休暇で一時帰国の途上にあった久米邦武、多賀子夫妻、娘寿賀子(すがこ)一家であった。ドイツ語の話せる久米夫妻は二人の格好の話し相手になっただけでなく、横浜に迎え入れることに尽力する。
二人は早速多賀子の父野村洋三の経営するホテル・ニューグランドに投宿し、ついで本牧の高台にある野村家の別荘を提供される。久米家が再びロンドンに赴くと、今度はその空き家となるを提供された。船中で知り合っただけで、ここまで好意を示す久米家には敬服する。1936年、警友病院で長女ヨアン、38年に聖母病院横浜分室でゴットフリートが生まれる。
オット駐日ドイツ大使は、マリアの父ハンマーシュタイン将軍のかつての部下であった。よってオットは当初はドイツと日本の間を往復するたびに、マリアの父から託された様々な物資を二人に届け支援した。
1941年12月の日本参戦のころ、一家は茅ヶ崎にあったウィルヘルム・ハース(戦後の駐日大使)の別荘に転居する。商務官ハースは、妻がユダヤ人であったために罷免され、北京のI.G. Farben社の代表になり日本を離れたからだ。
茅ケ崎の海岸に沿った松林。この近くに大島浩駐独大使の別荘があった。パーシュ家もこの辺りに住んだのであろうか?
茅ヶ崎の自宅でホーリネス教会を主宰していた牧師、柳生光異(みつい)が一家を招き入れてくれた唯一の日本人家族であった。茅ケ崎には当時著名なユダヤ人の法学者テオドール・ステルンベルグ(Theodor Hermann STERNBERG)が暮らしていたが、コンタクトがあったかは分からない。
茅ケ崎は横浜の外国人社会から少し離れて暮らす事情のある人間には、適当な場所であったのかもしれない。父ヨーンは祖父がドイツ人であったが、戦時中もドイツ国籍を剥奪されなかったのは、母マリアの家柄ゆえか?
1945年3月、一家は茅ヶ崎を去る。湘南海岸の一帯が、アメリカ空母からの艦載機から頻繁に機銃掃射を受けるようになったからだ。避難先は軽井沢で、ギュウギュウ詰めの列車で向かった。終戦を迎えた軽井沢の住所は239番であった。ヨーンの職業は教師になっている。
参考:『横浜をめぐる七つの物語』 大西比呂志
パーシュ家の軽井沢への疎開については『心の糧 (戦時下の軽井沢)』
で紹介しています。こちら

