父親がニューヨークのドイツのコメルツバンク支店長であったA.W.エルクレンツは、ベルリン勤務を命じられるが、大西洋の航海がドイツ人は出来なかったので、日本経由で向かう事にする。
 
日本郵船の龍田丸で横浜に着いたのが、1941年6月19日であった。すぐにホテル・ニューグランドに投宿するが、3日後の6月22日独ソ戦が勃発して、シベリア鉄道を経由しての帰国も出来なくなり、日本に留まることになる。
ホテル・ニューグランド
 
神奈川県外事課の史料では同年9月30日現在、エルクレンツ家の様な米州からの足止めドイツ人(一戸を構えていないもの)は、以下の様であった。
ホテル・ニューグランド  男 6 女  9 
バンドホテル       男 1 女  5
海浜ホテル  鎌倉   男  9 女 10 
 
借りたのは山手町66Bの家具付きの家であった。本にはこの家の写真が載っているが、珍しく戦時下の山手の写真である。
 
長女ヒルデガルトの回想によれば、ソ連のスパイであったゾルゲは山手にも顔を出している。
「私の両親はゾルゲを(山手)テニスクラブか山手でのカクテルパーティーで見かけたようだ。」
ゾルゲは1941年10月18日に逮捕されるので、エルクレンツ一家が日本に到着してから短い間の出来事だ。

またこの家はドイツ軍によって国を占領されたポーランドの2等書記官が本国に引き揚げたばかりの家であった。すぐ隣には日本人の家族が住んでいて、ヒルデガルトはそこの娘(Yoshi Shiono)とは仲良くなった。彼女は戦時下でもピアニストを目指して、学校から戻ると毎日5時間練習した。当時山手に住んだ日本人は、このような家庭が多かったのであろうか。
 
エノ(Enno)はセントジョゼフに通ったが、そこではユダヤ人アイザック・シャピロととても親しくして、「ああアメリカに戻りたい」と話した。
 

現在は山手66番には横浜ユニオン教会インタナショナルプリスクール他数軒の家が建つ。
 
間もなく日本も米英に参戦するが、ふたりの日本人アマ(お手伝い)は家に来る訪問者を警察に報告をしないとならなかった。ドイツは同盟国であったにも関わらずである。こうして日本人との接触も疎遠となる。
 
1942年11月30日、横浜港でドイツの艦船ウィッカーマルク号が大爆発を起こし、多数のドイツ人水兵に死傷者がでた際には、病院に収容しきれないけが人を、山手のドイツ人家庭が緊急で受け入れた。エルクレンツ家にもけがをした水兵が運び込まれた。
 
終戦は軽井沢の愛宕山の別荘で迎える。そして戦後再び山手に戻るが、住んだのはフェリス女学院向かいの山手46Bであった。
 
現在の山手46番の門柱。
(『Journey Interrupted』Hildegarde Ercklentzより)
 
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