1942年6月21日の朝日新聞に一人のアメリカ人の日本帰化の話が紹介されている。
「さらば祖国、いまは敵」の見出しに次のように続く。

「敢然父祖の国アメリカを敵と呼び、進んで日本へ帰化を熱望するアメリカ人がある。
横浜本牧2丁目328在住、慶大予科教授ローランド・イーストレーキ氏(55)が話題の人で、氏の真情を知る慶応大学小泉信三博士、津村順天堂専務津村基太郎氏らの手で戦時下破天荒とも言うべき帰化運動が進められている。」

日本がアメリカと戦う時、敵国からの帰化は戦意高揚に繋がると朝日新聞は考えたのか、大きく取り上げ一家の紹介も詳しい。国籍上敵国人であるが、小泉信三博士らの支えもあったので、他のアメリカ人同様に抑留されることはなかったのであろう。
 
「氏の祖父ウィリアムス・クラーク・イーストレーキ氏こそは、かの万延元年、今を去る82年前来朝して初めて我が国に西洋歯科医術を伝えた斯界の大恩人、在留27年の後、半生を我が国歯科医学界の発展に捧げて東京で没した人だ。

第2世フランク・ウオリントン・イーストレーキは3歳で父君に連れられて来朝、以来日本で育ち日本人を妻として、日本語を研究して博言博士と称された。氏の長姉マリーさんは早くも明治40年に率先して日本に帰化している。」
ローランドの祖父ウィリアムと父フランクはウィキペディア(日本語)にそれぞれ単独の項目がある。
 
ローランド自身は
「暁星中学からセントジョゼフ東大仏法科に進み、夫人きぬさんはスイス人を父に日本人を母にもつ混血の日本人であったが、夫君を扶けて隣組常会の婦人部長を懇望されるほどの銃後婦人。(中略)とりあえず、きぬ夫人を母方の片平家の戸主として入籍する事に成功、氏の帰化も手続きを残すのみとまで運ばれた。」
奥さんが日本人とスイス人のハーフであり、当時としては相当珍しい国際化した家族である。また妻の母方の片平家の戸籍に入ることでローランドも日本国籍を取得しようとしたようだ。
 
ローランドは自分自身に関し
「学校では同僚も生徒も誰一人私をアメリカ人扱いしようともしません。」と立ち居振る舞いは完全に日本式であったのであろう。
 
しかし1945年8月末時点の「在留外国人名簿」には、神奈川県中郡二芝町二宮の住所でアメリカ人として掲載されている。結局日本国籍の取得は出来なかったのであろうか?また軽井沢でもローランド・イーストレイク(56)一家3人が終戦を迎えている。帰化は出来なかったがアメリカ国籍のまま日本で暮らした珍しい例だ。
 
横浜との関連を付け加える。
まず1865年にウィリアムが来日した時、歯科医を開業したのは山下居留地108番であった。次いで1881年再び来日したときは山下町160番で開業した。
横浜の診療所跡地には『我国西洋歯科医学発祥の地』の記念碑が設立されたが、現在は神奈川県歯科保健総合センター前に移されている。

フレデリックは「博語博士」の名前で知られたが、1891年日本英学院を設立する。1938年にホテル・ニューグランドの会長となる野村洋三はそこで学んだ。
 
以上
 
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