第一次世界大戦中、中国の青島で日本軍の捕虜になり、日本に連れてこられて抑留されるが、1919年に解放されると、広島で旋盤の機械を買って事業を始めた。その後東京の小西六本店(その後コニカ)に就職する。
1926年横浜に来て山手に住居を構えた。山下町92番でドイツ料理ではなく、フランス料理店のオーナーとなる。二代目のフランツ・メッツガーによると、ここは港に着いた船の船員、皇族、ホテル・ニューグランドの料理人(サリー・ワイル?)などが来てにぎわったというが、1929-30年の大恐慌のあおりを受けて閉店となる。
後に日本女性と結婚し、元町でデリカテッセンの店を始めて、明治屋で働いていた捕虜仲間ヘルマン・ヴォルシュケからソーセージの作り方を教わり一時期店は繁盛する。地元で「ドイツ食堂」と愛された。
6人の子供が産まれ、ジョン(1941年1月入学)、フランツ(1948年入学)がセントジョゼフに通った。(『セントジョゼフ学院と横浜の外国人社会』他より) よって2代目フランツは今もドイツ語より英語の方が得意だ。
1937年の『ドイツ大観』によれば、住所は元町3丁目123である。この頃はデリカテッセンのお店の上に住んだのであろうか?妻はエリザベートであるので、その後日本人の妻を迎えた。
1939年9月2日付けの読売新聞神奈川版には次のような記事が出ている。
「腕はまだ鈍らぬ 青島戦では日本軍に破れたが
ハマ食品商メッツガー老 」の見出しに続き
「独波(ドイツーポーランド)開戦の報に等しく祖国に思いを馳せるハマ在留ドイツ人のひとり、中区元町3の133(戦術のドイツ大観では123)、フランツ・メッツガー氏(55)は(第一世界大戦で)青島戦に参加、 日本軍を敵にして活躍した海軍の水兵さんで在留25年、今は恩給の付く身で日本婦人と結婚、食料品店を営んでいる。」
Japan Directoryの1941-42年版によれば事務所は本牧緑ヶ丘8となっている。自宅も同じであろうか?
外国人居留者名簿によれば、終戦時は上水内郡信濃尻村(現信濃町)に疎開し無職で、カール(16)以下計6人の子供と暮らしている。妻の名前がないのは日本国籍だからか?
戦時中、日本に3、000人からいたドイツ人であるが、信濃尻村に疎開したのは2家族だけであった。もう一つはケテル家で妻はフミ子・ケテル、日本人であることが分かっている。銀座のドイツ料理店ケテルのオーナー一家だ。メッツガー家同様、日本人が家族にいないと、暮らすこともままならない場所であったはずだ。
2代目フランツは野尻湖は夏が水浴ができたり、冬はスケートと変化に富んだ生活ができて、悪くなかったと筆者に語った。
筆者の別稿
「フランツ・メッツガー(Jr)の体験した戦時下の横浜、野尻湖」はこちら。
