1943年に山下町1-1、バンドホテルにいたのがエルネスト・ダ・シルバとその家族。先に紹介したイタリア人のダンテ・デンティチも同じ住所である。こちら
 
ダ・シルバ家は、フレデリック・ダ・シルバが、1860年代にマカオに来たポルトガル人と、中国人の子供として1870年に横浜で生まれるところから始まる。彼は日本人女性と結婚し、発展しつつあった横浜港で荷役などの事業を拡大した。
 
その子フレッドは関東大震災の後、家族とともに上海に避難。そしてそこで結婚。横浜に帰還後、本郷町の通称ガス山に二階建ての広大な居を構え、貨物輸送の他、山手でシネマシアター等も始めたが、事業は行き詰まり、アンドリュー・ジョージ社に勤めた。
 
ラリー、フレディ、ロミナ、ジョー、ウィリアムの5人の子供はいずれも横浜で生まれ、男子はセントジョセフ学院に通った。フレッドは太平洋戦争が始まると英国籍のため抑留。日本国籍のジョー、フレディ、ラリーは直ちに日本の公立校への転校を強制された。1944年に三重県に疎開し、そこで終戦を迎える。
(『セントジョセフ学院と横浜の外国人社会』より)

この5人の子どもの中に標題のエルネストの名前はない。初代フレデリック・ダ・シルバと日本人妻の間にはフレッドの他に子供がいて、その子どもの一族であろうか?
 
エルネストは終戦時は大磯町に暮らすが、職業はスエーデン公使館雇いである。長男リムルドも同じくスエーデン公使館雇いとなっている。ポルトガル人がスエーデン公使館に勤務する理由もよく分からない。
 
終戦時の「在留外国人名簿」にはさらにポルトガル人シー・ダ・シルバ(41歳無職 )というダ・シルバも妻と子供4人の名前と共に載っている。彼もフレッドの子ではないようだ。 
 
強羅1300番の「公園ホテル」に、セントジョゼフのフランス人教師17人らとともに暮らした。またここのフランス人教師たちは公園ホテルで抑留されていたはずである。いろいろ分からないことが多い。
 
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