書籍化されました。
こちらからお求めになれます。
 
<序>
 
1944年6月にフランスのルマンディー海岸に上陸した連合国軍はパリを目指した。その手から逃れるため、ベルリンに向かう日本人婦女子がパリの東駅で列車に乗ったのは8月13日昼頃であった。しかし列車は出発しない。
 
夜になり一行は日本料理店「牡丹屋」と「都」から差し入れられた弁当を、夕食として東駅のプラットホームに横付けされている車の中で済ませ、とうとう夜も明けてしまった。
 
この文章から推測されるのは、日本人に弁当を差し入れた日本料理店牡丹屋、都の関係者は、彼らを見送りそのままパリで連合国軍に抑留されたのではないかということだ。
 
声楽家の古沢淑子はこの最終列車でベルリンに向かったひとりであったが、その後ベルリンからスイスに逃れ、そこで終戦を迎えた。そして1949年、職を得てパリに戻る。古沢は
「そのころ(1950年)パリにいた日本人は、20人に満たないほど。月に一度くらいは、当時一軒しかなかった日本料理店、牡丹屋に集まって、すき焼きなどを一緒に食べたものだった。」と述べている。
(『夢のあとで-フランス歌曲の珠玉・古沢淑子伝-』)
 
やはり牡丹屋は日本人が去ってもパリに残り、戦後は渡仏する日本人に先駆けて店を開いていたのである。「日本人あるところ、日本料理店あり」の典型である。そして当時は比較的裕福な日本人しか利用出来ない店を、終戦直後にわずか20人ばかりの顧客を相手に経営していたのである。
 
ベルリンでは「あけぼの」(こちら)という日本料理店が滞在者の集会場の位置づけであったように、パリでは牡丹屋が多くの日本人の回想に登場する。本編ではこの牡丹屋を中心に、パリ邦人の戦前、戦後の模様を見ていく。
 


以降は書籍でお楽しみください。こちら
 
第一部以上

メインのホームページ「日瑞関係のページ」はこちら
私の書籍のご案内はこちら