パラヴィチーニは1943年当時、本牧町3丁目に住み、立ち退きを命じられて弘明寺234に移り住む。
彼は1905年に来日し、本牧で外科医院を開業する。数少ない在日ヨーロッパ人医師であったため、在日外国諸公館の嘱託医をもつとめることになった。
1944年1月29日、過労とストレスが重なり、更に持病が悪化したため、疎開先の横浜市内弘明寺の自宅で客死した。日本人の家族がいたという話もあるようだ。
1941年12月に日本が米英に宣戦を布告すると、ジュネーブの赤十字国際委員会(ICRC)からの要請により、ICRC駐日代表の任に就く。第一次世界大戦時に続き、2度目の事である。任務は日本国内の捕虜収容所の訪問などで、日本は全く協力せず、苦労が多かった。
(「両世界大戦時における赤十字国際委員会駐日代表の人道活動について―フリッツ・パラヴィチーニ報告書を中心として 」 大川四郎より)
アプカー家の3代目の次女ルシールが書いている。
当局の許可を得るために、母とパラ博士の所の看護師が交代で3日3晩並ばなければならなかった。ようやく薬がもらえた時はピンキーはすでに昏睡状態で、一般病院(山手82番)に運ばれた。そして1942年1月12日、17歳で死亡する。(『Shibaraku』 Lucille Apcarより 原文英語)
1942年1月、姉のピンキー(本名ドロシー)が急に病におそわれる。幸い町(本牧)には外科、一般の診療所を開いていたスイス人のパラヴィチーニ(我々はパラ博士と呼んでいた)がいたので呼んだ。
彼の診断によるとピンキーは糖尿病であった。すぐにインシュリンの処方箋を書いてくれた。しかしそれだけでは薬はもらえない。
薬をもらうのに3日並ばないといけないとは、よほど貴重品であったのかもしれないが、到底許される社会ではない。

