『西村ソノ 戦時下の欧州を勇気と美貌で生き抜いた女性』は書籍化されました。
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<序 新史料の発見>
 
欧州に戦時中滞在した邦人は、仕事を持つ男性がほとんどであった。
数少ない女性の内、独身女性はなお少ない。いたのは留学生である。その中で美貌の筆頭にあげられるのが、パリを中心に活躍したバイオリニスト諏訪根自子である。ただし彼女の演奏家としての写真は専門家が撮ったもので、メイクがしっかりして、修正も加わっているであろう。筆者は美貌のナンバーワンには留学生西村ソノ(以下ソノと書く)を挙げたい。
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1948年 戦後のソノ(東京)
 
ソノは、今は両国にある文化学院の創始者、西村伊作の四女である。文化学院は自由で快活な学校として知られた。そしてソノについては上坂冬子が「伊作とその娘たち」の中で、本人から直接話を聞いて、戦時下の欧州での生活を書いている。
 
またドイツ陥落時にスイスに単身逃げ込んだ“武勇伝“を、当時スイスの日本公使館参事官であった与謝野秀が、「欧羅巴雑記帳」で書いている。これらをもとに筆者は「スイス国境を目指して、西村ソノ」を書いた。こちら
 
彼女についてさらに詳しく調べたいという気持ちがあったが、上記2冊を除くと、史料がほとんど見つからなかった。例外は当時スイスで一緒にいた山路綾子さんから、ソノについての話を聞くことが出来、写真も借りることが出来たことである。(「山路(重光)綾子さんの体験した戦時下の中欧」参照 こちら
あとは欧州駐在者の回想録に、断片的に登場する情報が少し集まっただけであった。
 
ところが最近大きな進歩があった。先ずはオーストリアの当時新聞に、ソノのウィーン留学中の写真記事を見つけた。日本でもプランゲ文庫(1945年から1945年までに日本で出版された印刷物のほとんどを所蔵する特殊コレクション)には「西村ソノ」に関する雑誌記事が27件あることも分かった。そしてこれらの記事は、おそらくここにしか残されていないのではないか?
 
終戦まもなく発刊され、すぐに廃刊となった名もなき雑誌の、小さなコラム記事まで探し出せるのは、まさしく驚異である。本編ではこうして見つけ出した情報をつなぎ合わせ、ソノの欧州での足跡、および終戦直後の日本での活躍を、徹底的に追うものである。

 
 
<写真>

筆者は西村ソノの写る写真を1枚持っている。先述のウィーン総領事であった山路章の長女山路綾子(のちに重光綾子)と一緒に1945年12月のクリスマスを祝う写真である。ドイツも日本も破れ、スイスへの帰国を待つ日々であった。当時の性能の良くないカメラで、室内で撮られた写真であるが、前列の右側の洒落た女性が西村ソノである。
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またその下の写真では現地の女性が着る着物は西村ソノのものであるという。山路家が疎開先として選んだ、オーストリアのチロル地方のシュトローブルの山荘では、当時ウィーンにいた西村ソノの荷物も預かっていたらしい。現地の女性の着る着物がソノのものだと教えられた。
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<渡欧前のソノ>
 
ソノは終戦時のパスポートの情報によれば1918年4月12日生まれ、本籍は和歌山県新宮町である。その後一家で東京に出てきて、父親の創設した文化学院の美術科に通った。その頃の活躍としては以下のようなものがある。
 
1935年の校内文芸会で、村瀬幸子演出のマルティネス・シエルラ作、「可哀想なフワン」という一幕劇が行われた。
 
「ソノが男役のフワンになったら、長身で化粧映えのする顔なので、ふだんからなついていた下級生たちが夢中になって、ちょっと宝塚的な気分さえ生じたりした。」と長女アヤは回想している。
 
筆者の探した範囲では、ソノが最初にマスコミに登場するのは1937年の雑誌「旅」の5月号である。19歳の時である。「特派女学生スケッチ旅行記・旅行社25周年記念誌上計画・尾鷲から新宮へ」という記事を書いている。
 
「尾鷲から新宮へ」 西村ソノ、「湯川から串本・白浜へ」 石井三冬と、2人で分担して文章とスケッチを載せている。雑誌社の特派員となった経緯は不明であるが、新宮はソノの出身地である。2人は文化学院美術科11期生で、卒業が1938年なので、卒業前の”特派員“旅行ということになる。
 
なお石井三冬は文化学院女学部3年在学中に画家として認められた女性である。文化学院美術教師の石井柏亭の三女でもあった。校長と教師、由緒ある家柄の2人であったことは間違いない。
 
余談であるが、この記事の最初のページに載っている広告は「キューピーマヨネーズ」と「森永ミルクチョコレート」である。字体も80年後の今のと、ほとんど変わらない。
 
同じく1937年夏、文化学院夏の講座というのが軽井沢で開かれた。石田アヤ夫婦と美術科2年生だったソノの3人でやろうとなった。「講師や会場の交渉から、印刷物、ポスター、飲み物を寄付してもらうことまであれこれと走り回って、結構楽しかった。」とこれもアヤの回想である。その際、ソノが文化学院の校庭を描いた絵を元に、プログラムが作成された。
 
また「婦人画報」1938年7月号には「令嬢の社会見学」の題目の元、「東京水上警察見学記」として記事が載っている。こちらは卒業後であろう。なぜソノが選ばれたかといえば、いわゆる育ちの良い「令嬢」故であろうか?
これらのように、美貌の才媛という評判はすでに出来つつあった。
 
以降は書籍でお楽しみください。こちら
 

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