<ベルリンへ>
先ほどメリーが調書の中で述べたドイツ人のラトビア引き揚げ命令は、1939年10月7日に出された。そして翌1940年8月6日、ラトビアは再びソ連の一部となった。大鷹正次郎ラトビア公使は、ソ連に外交機能の停止を告げられた。
同じタイミングの8月22日 松岡洋右外相は海外40名の大公使、参事官等に一斉に帰朝命令を出した。いわゆる松岡旋風である。この時大鷹にも帰朝命令が出た。
9月5日ころ、(大鷹公使以下)日本公使館員は、まずベルリンに引き揚げた。その際、館員の片山醇之助が横井家にも引き揚げを勧めた。喜三郎は娘2人を片山に託して一緒にベルリンに行かせた。自分は後始末をして、翌年2月にベルリンに引き揚げた。また財産を置いていかねばならなかった。
ラトビアで過ごした17年は平和な日々であった。横井一家は、タマラの母がドイツ人であったため、ドイツ系社会に位置づけられ、どちらかというと上流社会に属した。
メリーはベルリンでは、片山のおかげで大使館に勤務することになる。露、独、英、仏語に堪能で、明るく機知に富んだ性格が大島浩大使に気に入られたという。タマラも妹のおかげで大使館の図書館付き事務員として就職出来た。
タマラは大使館の便せんを、私用に使ったことを悔いて、辞職を申し出る。純真な心のタマラには、仕事が向かないことを上司は理解して受理した。
1942年4月現在のドイツ日本人名簿には大使館勤務として、横井タマラ、メリーの名前が載っているので、これ以降にタマラは辞めたようだ。その後はブレスラウ市(現ポーランド)で英語教師をし、また若い女性に聖書を教える。これこそタマラの生き甲斐であった。又喜三郎もブレスラウに移り住んだと思われる。
<マールスドルフ>
1945年、戦況が悪化し連合国軍が東西からベルリンに迫ると、ドイツ滞在の民間日本人は、まだ日本とは中立状態にあるソ連軍の手で日本に送還されことを期待して、ベルリン郊外のマールスドルフ城に集団で避難した。タマラと喜三郎はブレスラウからマールスドルフに向かった。

パリからの避難者で、若い物理学者湯浅年子の日記にマールスドルフでの生活に関する記述がある。
4月15日 急にマールスドルフに来てしまった。
4月29日 今日、横井さんがお祈りをして、4人の者が庭の片隅に集まった。盲人が信仰により目を開くルカ伝10章46である。
私のように“有邪気”(無邪気の反対の意味であろう―筆者)、知に傷つけられた者は信仰にふれられない。
4月29日 今日、横井さんがお祈りをして、4人の者が庭の片隅に集まった。盲人が信仰により目を開くルカ伝10章46である。
私のように“有邪気”(無邪気の反対の意味であろう―筆者)、知に傷つけられた者は信仰にふれられない。
5月2日 今朝、例のごとくわら布団の寝台で寝ていると、横井さんが入ってきて、
「大変センセーショナルなニュースありますね。(注:このフロイライン”お嬢さん”はドイツ人を母としてドイツで生まれ、日本語はあまり自由でない。)ヒットラー殺しました。」と言う。
この横井さんは横井タマラである。また先の小野寺百合子に加え、湯浅年子もタマラの母親がドイツ人と書いているが、ドイツ系ラトビア人が正しいのであろう。
タマラもこのことを『金のクサリ』に書いている。
彼女は避難所であるマールスドルフでも、安閑と暮らすべきではないと考えた。そこで関根正雄や湯浅年子に「聖書研究しませんか」と申し出る。関根は聖書学者である。他の何人かも加わって、古城の3階の一室でマルコによる福音書の学びが始まる。
湯浅は特にタマラの優しさに心をひかれ、タマラが母の形見として肌身離さず持っていた、革製・鍵付きのサイン帖に、ひらがなで「いつもやさしいタマラさま」と書いた。(このサイン帳は今も残っているのであろうか?)
この縁でタマラが日本に引き揚げてから、バイブルのクラスを、湯浅年子の紹介で、彼女の母校お茶の水女子大学で持つことが出来た。2人の証言が重なった。
なおベルリンを引き揚げる時、最も大切な家族のアルバムと、母の形見の皮表紙のドイツ語の聖書が盗まれたことがショックであったとタマラは書く。このアルバムには後日談がある。
<メリーの引き揚げ>
ソ連軍がベルリンに迫る中、大島大使はメリーの将来を心配し、
「これからはどうするつもりですか、自分で考えてください。」 と言った。タマラや友人はマールスドルフ合流を勧めたが、メリーは最後まで大使館員と共にベルリンに留まった。
「これからはどうするつもりですか、自分で考えてください。」 と言った。タマラや友人はマールスドルフ合流を勧めたが、メリーは最後まで大使館員と共にベルリンに留まった。
4月13日、大島大使らが南に向けて去り、メリーは大使館に籠城する外交官と、さらに1日だけ行動を共にした。その後北の方角に、残った外交官らと避難し、そこで5月2日、ソ連軍に保護されたと述べるが、詳細な経路は不明である。
<満州へ>
5月3日の喜三郎のマールスドルフ城での最後の活躍は冒頭に述べた。
5月18日、一行はソ連軍の命令で、城を引き払い、日本へ帰国の途につく。他の避難場所の邦人も加えた総勢は152名であった。モスクワを経由し6月3日、シベリア鉄道で満州に入ることが出来た。
5月18日、一行はソ連軍の命令で、城を引き払い、日本へ帰国の途につく。他の避難場所の邦人も加えた総勢は152名であった。モスクワを経由し6月3日、シベリア鉄道で満州に入ることが出来た。
シベリア鉄道によるドイツからの引き揚げ者のうち、日本から派遣されていた外交官、商社関係者はそのまま日本に向かったが、日本に帰っても経済的基盤の無い者は満州に残った。喜三郎とタマラも満州に留まった。喜三郎は「我々家族は日本に永住することはない」と語っていた。
そして黒竜江省のハルピンでタマラと喜三郎は白系ロシア人の未亡人のところに住んだ。タマラはロシア語が出来たので、日本の特務機関で働くことを勧められたが、白系ロシア人のアドバイスで断った。これは命拾いであった。その後まもなくおとずれた終戦で、特務機関員は全員ソ連軍に逮捕されたからだ。代わりに領事館からロシアの新聞社の求人を紹介され、英語をロシア語に翻訳する仕事に携わる。
間もなくして別グループでベルリンを引き揚げたメリーもハルピンに着いた。そうして一家は再会するが、メリーはまもなく新京(現長春で満州国の首都)へ向かう。その後タマラと喜三郎が追いかけ、新京で一緒に住む。
第三部以上