<序>
 
東京「麻布霞町教会」のホームページには「歴史」の項目があり、次のように書かれている。
「1949年10月23日にスカンジナビア・アライアンス・ミッション基督伝道館として発足。創立者は横井玉良宣教師。
生涯のテーマは“たった一つの生涯、それはまたたく間に過ぎ去る。たった一つの生涯、それがキリストのために用いられたら永遠に滅びない。“(荒井基著『奇跡の金のクサリ〜横井玉良先生の生涯』いのちのことば社より)」
 
霞町教会の創立者として名前の挙がる横井玉良(タマラ)は、日本人を父としドイツ系ラトビア人を母とした。
 
父親の横井喜三郎に関し筆者は「ベルリン日本人会と欧州戦争」の中で
「ベルリン陥落の知らせが城にも入った。1945年5月3日、ソ連軍は邦人が最近までいたベルチヒの村に入った。ソ連軍の進駐に備え、城の門にロシア語で“日本帝国総領事館”の門標を掲げ、屋上と門に日の丸の国旗を掲げた。
 
婦女子は万が一に備え3階の一室に隠れた。翌4日午前7時40分、城に5名のソ連兵が現れた。ロシア語の得意な横井喜三郎が、この城は日本総領事館で在留邦人の避難所であると説明すると、ソ連兵は2人を歩哨に残し退去したのであった。」と書いた。
 
このロシア語の得意な喜三郎に関しては、筆者の知る範囲では、戦時下の書物に登場するのはこれだけで、グーグルで名前を検索しても、長い間この箇所が表示されるだけであった。
 
そしてその検索結果を元に、喜三郎の親戚にあたる嶋田孝基さんが、筆者にコンタクトしてきたのは2016年5月のことである。祖先の調査をしているとの事で筆者も協力した。これが今回の調査の”金のクサリ”の最初の輪であった。
 
そしておそらくタマラが生前に語ったことを元にして、『奇跡の金のクサリ〜横井玉良先生の生涯』(荒井基著)という冒頭に挙げた本が自費出版のように出版されていたことは、筆者には次の”金のクサリ”の輪であった。
 
こうした縁(金のクサリ)を元にした調査から見えてきたのは、横井喜三郎(以降喜三郎と表す)という人物は、ベルリン滞在時代だけからは決して読みとれない、明治時代にロシアに向かった先駆的かつ、国際的な日本人であるということであった。そしてその家族の壮大な歴史であった。

<ロシアへ>
 
喜三郎は今から140年ほど前の1875年、名古屋市に生まれる。3人兄弟の次男であった。外務省外交史料館に残る史料から、喜三郎の渡航の様子を知ることが出来る。それによると1899年か1900年、日本の美術品販売の目的をもって、帝政ロシアの首都サンクト・ペテルブルクに渡来した日本人がいた。そしてこの日本人のフランス語通訳兼書記として、喜三郎は同地に来た。25歳ころである。
 
「辞書一つだけ持って、21歳で渡米」とタマラは『金のクサリ』の中で語っている。先ずアメリカに渡り、そこからロシアに渡ったことになる。
 
ロシアでフランス語通訳というと少し妙に聞こえるが、1906年に外交官補としてモスクワに赴任した若き佐藤尚武は「当時のロシア交際社会は全部フランス語で、外務省との往復公文ももちろんフランス語であり、(中略)ロシア語を話す機会は極めて少なかった。」と回想録の中で書く。喜三郎はどこでフランス語を学んだのであろう?
 
その後喜三郎は、それら日本美術品を一手に買い受けていたロシア側の「アレクサンドル商店」の店員となる。そして次も外務省の史料であるが、商用目的の民間駐在者は1902年12月現在、
サンクト・ペテルブルク 3人
モスクワ       4人
 
とロシアの駐在員の人数たるやごく少数である。そしてサンクト・ペテルブルク滞在の3人のうちのひとりが、喜三郎であったことになる。

 
<独立>
 
1904年2月の日露戦争勃発前、喜三郎は同商店を辞め、独立してモスクワにおいて、主として日本製品を販売する商店を開いた。この日本商店は流行ったようだ。すぐにいくつかの支店を設けた。サンクト・ペテルブルク、キエフ、リガ(ラトビアの首都)、ワルシャワ等にであった。
 
この頃ウィーンに住んでいたある日本人について調査している方から頂いた連絡によると、その日本人の日記には1907年10月8日の欄に
「(モスクワの)横井氏のところに行き、写真帳を買った」と書いてあるという。写真とは日本製アルバムのことか?
 
外務省「海外実業者調査 1911年」でも、ロシアには、2人の日本人企業家が載っているのみである。
リストのひとり目が喜三郎で会社は「ヤポニカ商店」である。
取扱品目は日本雑貨 資本金6万円 従業員 18人。 
モスクワに2店、ワルシャワに1店、サラトフに1店の店を構える。
 
もうひとりの河野通九朗は「横浜原合名会社」の現地代表である。創業家の原富太郎(雅号三渓)は生糸の取り扱いで財をなし、その富で横浜に庭園、三渓園を開き、今日も市民に親しまれている。
 
一方三井、三菱といった当時の財閥の名前はまだない。第一次世界大戦の始まる2,3年前はツウエルスカヤ街24番地のヤポニカ商店は「独占事業の感をなしていた。」と本人が後に外務省に書き送った言葉である。従業員の数、支店の場所など史料によって若干異なるのだが、タマラもモスクワ時代に関し「父は貿易王と呼ばれた」と書いている。喜三郎は事業家として大いに成功したことは間違いない。

<結婚>
 
サンクト・ペテルブルクで3年勤めた1904年、アレクサンドリア商店主の紹介で、喜三郎はロシアの官吏の娘と結婚する。当時ロシア領ラトビアの第三の都市リーバウ出身のラウラという女性であった。彼女の父親はドイツ系のロシアの役人であった。
ロシアでドイツ系女性とは少し違和感を覚える。しかし

「当時のロシアにおいては、ドイツ大使の地位は非常に権威があり、また宮廷の要人はほとんどすべてがドイツ系であったと言って誤りがないほどであった。」と語るのは、ロシアで喜三郎と付き合いのあった、先述の大使佐藤尚武である。ラウラの父親もこうした要人の一人だったのであろう。
 
結婚後、横井夫妻はモスクワに移る。そして長女タマラ(玉良)が1905年1月13日に、そして次女メリー(米里)が1906年8月5日に生まれる。2人の娘はモスクワで現地の学校に通う。ロシア語はこの時に修得した。
 
タマラの回想である。
「幼い頃は、貿易商として成功し、11も支店を持つ日本人である父の建てた大邸宅で乳母にかしずかれて、何不自由ない生活をおくる。夏はクリミアの別荘で母や妹と3ヶ月ほど過ごした。」
実際に一家のアルバムには「大正6(1917年)年クリミア半島カツェクエリの別荘において」という写真が、複数枚残っている。
 
またタマラによれば喜三郎はモスクワでは、日本からの留学生や若い外交官、武官などの世話をすることをいとわず、金銭も融通した。そしてこの中には先述の佐藤尚武もいた。したがって、革命によって帰国させられた外交官たちの喜三郎からの借財に対して、日本政府は議会の決議を経て、当時の金で5万円くらい(1994年現在で2億円くらい)を返済金として父に支払ったという。
 
実際に同地の日本総領事館(大使館は首都サンクト・ペテルスブルク)で写された何枚かの写真では、恰幅の良い喜三郎が前列に写っている。ただし5万円の返済金の話は外務省の文書からは確認は取れない。
 

<第一次世界大戦~ロシア革命>
 
1914年、欧州では第一次世界大戦が始まる。大戦中、日本とロシアはともに連合国側についたので、喜三郎はモスクワでビジネスを続けることが出来た。しかし1917年、ロシアでは革命が起こり、社会主義国家が成立する。すると日露関係も危なくなる。モスクワの在留邦人に関する新聞記事を拾っていくと次のようだ。
 
1917年8月19日の朝日新聞に「露国、(日本製品の)一般的輸入禁止 在露邦人の反対運動」の見出しの記事が出る。
その前日の18日、在モスクワ原輸出店の河野通九朗が横浜商業会議所に宛てた電報で

「モスクワ在住日本商人には、何ら除外なき一般的私用品の輸入禁止は一大打撃。」とこのロシアによる例外なき日本製品輸入禁止による商売継続の困難を訴えた。河野は先述の1911年の海外実業調査で、横井と並んで名前のあった人物である。

 
<日本への引き揚げ>
1917年11月2日、内乱に伴う砲撃で喜三郎のヤポニカ商店のショーウィンドウが壊された。次いで翌年1918年2月23日、内田康哉大使が首都(この時はモスクワ)を引き揚げた。「理由は独軍の首都侵入の危険から」と伝えられた。大使は

「在モスクワの邦人は100余名。三井物産はすでに引き揚げ、大倉組支店その他は今なお営業継続中。残留者の多くは日本の商館の店員である。」と新聞に語った。モスクワの邦人も10年の間にだいぶ増えたことが分かる。
 
大使が去ってしばらくして、革命の難を逃れるために、喜三郎は母と子供たちを一足先に故郷名古屋に帰国させた。家族はシベリア鉄道を経由し、3月、京城(今のソウル)の高級ホテル「朝鮮ホテル」の玄関口で母親ラウラと、タマラとメリーで撮った写真が残っている。ロシアの貴族と見まごうような、服装である。
 
そして3月29日、名古屋に到着する。タマラたちには初めて踏む父の祖国日本であった。新愛知新聞(今の中日新聞の前身のひとつ)が家族の帰国を報じている。
1918年3月31日、4月1日の2日に渡り「露人を妻の貿易商、名古屋に帰る」の見出しで、写真入りで取り上げた。ロシア人の妻は当時の名古屋では非常に珍しかったのであろう。また記事の中でラウラ夫人について
 
「純粋のロシアっ子だけにユダヤ人への嫌悪著しく、トロッキーやレーニンも“あれはユダだ”と言って眉をひそめている」と書かれている。旧体制に属すラウラである、自分らが引き揚げる原因となったロシア革命の指導者に対する、恨みが出たのであろう。
 
日本人にはラウラの洋装が珍しく、街の子供たちが「お化け、お化け」と追いかけて来たのは、タマラたちにとっては苦い思い出であった。
 
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新愛知新聞より( 嶋田孝基さん提供) 
 
記事全文は「横井喜三郎補足」に載せてあります。こちら
 
第一部以上
 

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